の飛躍の必然が存在していた。明治初頭十年十五年間の社会事情を真面目に観察すれば、日本の開化期文化・文学の複雑な胎生を見逃すことは出来ない。旧時代の文学的伝統は仮名垣魯文その他の戯作者の生きかたに伝え嗣がれており、維新と開化とに対して、江戸っ子であり旧時代の文化の代表である彼等は皮肉且つ反動として現れざるを得なかった。新興文化の先駆としての福沢諭吉の啓蒙的文筆活動、翻訳小説と、魯文の文学とは、近代社会建設に向う意欲とその思想とに於て、役割に於て、本質を異にしたものであった。坪内逍遙の「小説神髄」が日本の近代小説への道を示したことは周知である。文芸理論に於てはヨーロッパの評論、文学評価を学んで封建的善玉悪玉の観念を排し、社会と人間との現実を描くことを慫慂《しょうよう》した逍遙が、「当世書生気質」の描法にはおのずから自身が明治社会成生の過程に生きた青年時代の社会関係の角度を反映して、多分に弁口達者な戯作者風を漂わしているのは、芸術のリアリティーとして実に興味ある実例である。
近代文学胎生期としての明治初年の文学に交流していた上述の二様の流れは、逍遙の英文学研究の業績、二葉亭四迷の当時にあっ
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