あしかれ、所謂人間らしい心によって直接行為し生きてゆく愛すべき人々に氏の「私」は触れてゆき、理解し、没入して行こうとしていると思われるのであるが、氏は作家としてそれを全く感性的に行っている。謂わば好みにしたがってだけやっている。そして氏の好みは、過去からの時代性をニュアンスとして持ち、現代の時代性の一面の投影をうけ余り遠く古来の人情、情誼、拳で払う男の涙の領域から勇飛していない。氏のこの感情のありようと現代の或る小市民の感傷とは互に絡みあって最近の尾崎氏の作品に、一種芝居絵のような感情の線の誇張とうねりと好調子の訴えとをつよめている。氏の描く世界が、従来多くの作家に扱われて来ている種類のインテリゲンツィアでなく、さりとてプロレタリア文学が描こうとする社会層でもなくて、半インテリゲンツィアとでも云われるような半ば明るみに半ば思想の薄暮に生きる人々の群であることも、見落せない。
 かかる事情で、従来最高なものとされて来た純文学と通俗小説との関係は、様々に見直され、作品の実践で両者の混ぜ合わせが行われ、尾崎士郎、室生犀星、武田麟太郎諸氏の新聞小説への進出をも見た。が、引続いて起った長篇小説へ
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