物のように働きかける思想の力というようなものは当時の作家が夢にも考えなかったものである」と肯定されている。(引用、一九三六『文芸年鑑』)
世界思想史について些の常識を有する者には小林氏の以上のようなロシア文学史についての見解はそれなり賛同しかねるであろうし、特に明治社会と文化との生成の間、全く未開のまま通過され異質のものに覆われてしまった中江兆民の時代の思想の意義を、抹殺していることは、小林氏がこの私小説論の後、変化しゆく情勢につれて、文学における批判精神の不用論をとなえ、主観的日本的なるものの主唱者の一人となり、科学精神否定に至った必然の要因を語っているのである。
尾崎士郎氏の「私」の主観的純化、拡大の翹望は、実に世界の能動精神が一つの核となしている現代の要求でもあるのだが、ここでも日本の能動精神そのものがそこでぶつかっている問題即ち、どっちへ向って、どのように「私」を社会化するかという困難に行当っている。氏の「人生劇場」は最近でのベスト・セラーズの一つであったが、この作品について見ると、氏の「私」の社会化は先ず一般的な人間感情への同情を手がかりとしているように思われる。よかれ、
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