語りてである知識人の社会生活の狭隘化と弱化につれて貧困になっているのであるから、その不満・反省の一形態として、横光氏の所論は反響をもった。共感は自意識の問題や、近代人の偶然性の説明に対する漠然とした疑いを含みつつ示されたが、この自意識を自我という観念にまとめて、その点から、横光氏の私小説論に対立した作家、評論家がある。
 尾崎士郎氏は、作家としてリアリストであるよりはロマンチストであるが、この作家は嘗て久米正雄氏が純文芸とは私小説にほかならないとした言葉をとり、日本の近代文学に現れた「私小説」というものが、横光氏の説く如く古来の日記・随筆の文学形式の発展としてあらわれたものではなく「私」というものの近代的発展の発現であると主張している。「しかし個人主義時代の『私』と今日の『私』とはちがう。」「今日においては『私』を決定する想念は個人主義的要素をいささかも含んでいないということが一つの特質として認められねばならぬ。」「作者の生活態度、人生観が作中の『私』に変貌しているかどうかということなぞということは結局どうでもいいことなのである。」「個人の経験が表現の上に客観的統制を保つ余裕のないほど
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