、「私などは初めから浪曼主義の立場を守り、小説は可能の世界の創造でなければ純粋小説とはなり得ないと思う」と断言したのであった。
ロマンチシズムの本質にある燃焼性と横光氏の自意識なるものとの関係も注意をひかれるところである。横光氏が近代人の資質としている自意識というものが常に人間をその内外に引さく作用をするとすれば、ロマンチシズムが世界の帝国主義時代の廃頽の中にあって益々その危険をつよめている。欲するがままに行為せんとする力はもたず、ロマンチストと我から称する横光氏は、「可能の世界を創造」する文筆の幻の範囲でのロマンチストであろう。そして、これまでの通俗小説が偶然にたよって成立っていたということにそれなりに縋って、近代人の必然は偶然であり、それは通俗であると、通俗なりの内容をうけついで立っているのは、何たる従順な市民の姿であろう。一九三七年一月に発表された同氏の「厨房日記」にあらわれたインテリゲンツィアとしての思想性の全くの喪失と、今日純粋小説が昔ながら通俗小説に終らざるを得ない諸事情の萌芽は、この純粋小説論にふくまれている多くの矛盾に根をおいているのである。
純文学、私小説は、その
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