切実にあたらしい(というのは主観的な認識ではない)社会的現実に斬りこんでいるか否かということだけが存在を決定する。」私小説の問題は「もっと純粋な主観的表現に達するためには、いかにして夾雑物を払いすてるかということだけである」とした。(引用文、一九三六『文芸年鑑』)
「私小説」というものが近代日本文学にあっては、現在志賀直哉氏の文学にその完成を示しているところの純粋小説であるとし、日本に於てはプロレタリア文学の理論が、「文学における思想の優位を主張」する時代になってはじめて「私」と社会との対立が問題となって西欧の「私小説の歩調に接近して来た」と見たのは小林秀雄氏である。氏はヨーロッパ文学において人文主義の時代から十九世紀の自然主義時代に至る自我の発展「社会化した私」と、自然主義が文芸思潮として移入した明治時代の日本の「要らない肥料が多すぎ」「近代市民社会は狭隘であった」中で自我を未だ自我の自覚として十分社会的に持ち得なかった日本の知識人が「自然主義を技法の上でだけ」摂取し、対象を我におかず「実生活」においてそこに膠着せざるを得なかった事情と対比した。
 尾崎、小林両氏の私小説論は、「純文
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