ヒューマニズム」運動に関して真に学ぶべきところは、一九三四年の人民の人間的自主性を守らんとする要求によって結ばれた広くして強い文化の線が、ファシズムに反対の立場を保っているという共同的な一点によって、他面では多く異質なものを蔵しているフェルナンデス流の行動主義をもその一部に包括したという事実である。「行動のヒューマニズム」も、その一翼にしたがわざるを得なかった更に巨大な更に行動的な、現実の社会的・文化的行動が起されていたという歴史の進みゆく歩どりの複雑さをこそ学ぶべきなのであった。
 ところが、このフェルナンデス等の「行動のヒューマニズム」は日本へ「行動主義の文学」として輸入されて以来今日に到る迄に、果して如何なる日本的変貌をとげて来ているであろうか。ヒューマニズムの問題は、今日、そして明日、すべての人々の生活と文学との上に依然として重大な基調をなすものであるから、この機会にこの問題を眺め直すことも無駄であるまいと思う。
 先ず第一に注目されることは、フランスにおける文化擁護の全運動の内部の主流と「行動のヒューマニズム」というものとの相互的な関係と差別とが、現代ヒューマニズムの本質の理
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