なインテリゲンツィアの手にとられた知慧の輪のように、それぞれの動機からああこうと受けわたしされたのであった。
 ジイドは前年夏ゴーリキイの病篤しと知って、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]へ飛行し、そこに約二三ヵ月止り、かえって旅行記を書いた。本質に於ては飽くまで旧い箇人主義から脱していないジイドが、「新しい社会の集団人《マス・マン》の代表者、具現者」としての部署におかれている人物の価値を理解することは全然出来なかったし、その社会全体が発展の過程に於て経なければならない内外の摩擦の諸相とその意味を正しく把握することも不可能であった。ジイドはその本の序文に「私自身よりも、ソヴェートよりもずっと重大なものがある。それはヒューマニティであり、その運命であり、その文化である」と云い又「あらゆる反ソヴェートの新聞紙が、いま自分の本を利用するのが残念である」と云いつつ、ロマン・ロランその他の前もっての忠言にかかわらず、その小冊子を三ヵ月に百五十版重ねさせた。「政治的に利用してあるパンフレットの如きは一部一法二五。十部十二法。百部百法。五百部四五〇法。千部七五〇法というような割引率で、数万を頒布している」(引用文、フランス現代文学の思想的対立)。
 ジイドの「感覚の玄人」の腕に魅せられた人々は、今猶上に引いた序文の言葉の魔術や、八方からの反撃にかかわらずジイドが飽くまで真理を追究しよう[#「飽くまで真理を追究しよう」に傍点]としている態度という架想に陥って、人類の文学の今日の多難な道の上にこの小冊子の著者が撒いている細菌の本質を観破せず、或は、観破せざるが如きうちにおのずから、自身の真理追究[#「真理追究」に傍点]の姿をも一致せしめているかのように見うけられる。
 文芸懇話会が、文学の隆盛のための組織としてはそれ自身矛盾を包んでいることは既に明らかにされたのであったが、一九三七年という年は、更に建国祭を期して文化勲章が制定せられ、帝国芸術院というものが設立され、文芸懇話会は創立四年目に発展的解消をとげて、新日本文化の会として現れた。
 文学の論議が、これ等の文化組織の設立に前後して、異様な一方性をもって政論化されて来たことは一つの画期的特色である。文学と大衆との無批判性、大人の文学、文学における日本的なものの強調等は、文学の全体としての健全な発展のために自省され、再評価
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