されるべき範囲を脱し、文学を論じつつ、その論調を文学以外の規準で律するような危険を示して来た。批評文学は、昨年既に批評家自身によって随筆化されたと云われていたが、ここに到って一層その理論的骨格を挫かれて来た。一方的な飛躍は、遂に近代世界の文学が永い努力の蓄積によってかち得て来た文学評価における科学性の意義の抹殺に到達したのである。
折から川端康成氏の「雪国」、尾崎一雄氏「暢気眼鏡」、永井荷風氏「※[#「さんずい+墨」、第3水準1−87−25]東綺譚」等が一般に文学の情愛とでも云うようなもので迎えられたことは、これらの作家それぞれ独特の文学の境地と美と云われるものの性質とをもっているからである。が、特にその芸術におけるリアリティーの境地や美感が、所謂科学的な要素を全く含んでいないで、現《うつつ》と幻の境をゆくが如き雰囲気であることが、文学に同じ日本的なるものを愛するとしてもその問題と作品との政論化に賛同しかねていた作家層と読者とを広くとらえたのであったと思われる。
然しながら、現実は川端、尾崎両氏の芸術的現実に終っていないのであるから、一方に真の大衆の生活感情をその文学の中に再現しようという努力がつづけられており、中野重治氏「汽車の罐焚き」徳永直氏「飛行機小僧」「八年制」「はたらく一家」窪川稲子氏「新しき義務」宮本百合子「雑沓」にはじまる長篇への試み等が現れた。島木健作氏が、農民組合活動における今日の諸タイプを描いた「再建」は単行本として出版されて各方面に印象を与えて間もなく発禁となり、「生活の探求」は、書下し長篇小説として出版された。「八年制」も「汽車の罐焚き」も好評を得た作品であり、それぞれその作者らしさの溢れたものであったが、例えば「八年制」と同じ作者の「心中し損ねた女」「作家の真実」雑誌『新文化』に執筆された同じ作者の感想等をよみ合わせると、読者は、日常の生活感情と云われるものの内的要素やその質について、複雑な歴史の投影を感じざるを得ないのである。中野重治氏の「汽車の罐焚き」「原の欅」と幾多執筆された文学についての評論とは、その相互的関係において眺めて、やはり、今日この種の作家のおかれている条件の主観的客観的のむずかしさが痛感せしめられる。
本年の後半に入って、これまで描写のうしろにねてはいられないと、独特の話術をもって作品を送っていた高見順氏が「外資会
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