、一般の通念を、官吏、軍人、実業家とのみ限定することは困難である。人は、貧しき大人、苦しき大人、得意ならざる大人の現実の存在を念頭に泛べざるを得ない。古来文学は、まことに心かなしきものの友であったのであるから。――
文学における日本的なるものの主観的な横溢の流行は、フランスから帰朝してその第一作「厨房日記」を発表した横光氏の作品が拍車となって作用した。常にN・R・Fのかげを負うて来ているこの作者が、「紋章」では日本の精神の緊張、高邁さの一典型として茶道を礼讚した。その気の張りさえも「厨房日記」では棄てている姿は、当時、翻訳紹介されたジイドのソヴェト旅行記にある反現実的な態度と微妙に日本の空気の裡で結びつき、反欧州文学思潮の流れを太くした。
ジイドは、ミドルトン・マリの評によれば「ほとんど取るに足らない本質的な業績を基礎として、しかも彼のようにヨーロッパ的人物となった作家は蓋し異例と云うべきであろう」ところの作家である。ジイドの箇人主義は、それが日本へも移植されたフェルナンデスの主張する行動のヒューマニズムの文学が要求するニイチェ的な意味での全的なる箇としての箇人主義であることは周知のことである。ジイドの「芸術的な無道徳主義は」、「ニイチェの『危険な生き方』とドストイェフスキーの英雄的な道徳廃棄論との巧緻な結合であり、しかも以上の二人の天才の倫理的熱情を全く欠いているジイドは」単に「感覚の玄人」として、世界観の飛躍を試みたに過なかった。
日本でジイドは、実に驚くべき過重評価をうけたのであるが、且て二十年近い昔、「狭き門」「背徳者」などが翻訳出版された時文学愛好者がアンドレ・ジイドなる名に払った注意は決して甚大なものではなかった。ジイドの日本における奇妙な繁栄は、丁度四五年前、プロレタリア文学の蒙った破壊前後、文学的混迷の時期に、一部の人によってジイドの混迷期の作品「パリウド」などが、深刻な面持で紹介されたに始る。続いてシェストフの不安の文学を通じてもたらされたニイチェ、ドストイェフスキー熱はミドルトン・マリがその混成物であるというジイドの芸術をも益々日本の読者層に輸入した。又ジイドがフェルナンデスの限界を破って、更に新しい社会の建設に対する賛同者になったことは、違った種類の読者をもひきつける一応の魅力となった。かかる事情のもとで日本へ紹介されたジイドは、小市民的
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