である。
引続いて、文学と民衆、文学の大衆化の問題は、一九三七年の前半期に沢山の討論を招致したテーマであったが、ここに注目されなければならないのは、民衆というものを如何に見るか、という基本的な規定の点では、見解が四分五裂の観を呈したことである。明確に、現実の生活のありようがそれを示しているままに、大衆と一口に云っても内容は様々であって、文学に対しても大別進歩的要求をもつもの、保守的要素をもつものとあって、日常生活と云われる関係の内側でも大衆自身利害の対立や相異を有するものであり、相互関係が社会の全体の動きで動きつつあるものとしての民衆。そのどの部分に歴史の進みゆく重点を見るかという観かたに於て民衆の具体性はとりあげられなかった。知識階級という、あり得ぬ抽象中間階級を設定してヒューマニズム論をめぐる人々は、民衆を口にして、やはり、民衆を一箇の抽象名詞としてしまった。更に注目をひかれることは、この文学の大衆化動議においてそれ等の論者は民衆を抽象化しつつ、而も一方では現在の文化低度に固着せしめた条件で民衆を明白に、文化上の被与者として扱っている事実である。
大衆という言葉の歴史における意味で、文学との関係をとりあげたのはプロレタリア文学であった。プロレタリア文学は、勤労者の広汎な生活を文学にうつしつつ、同時に、大衆そのものが内蔵している文化と文学との新たな発展力、その開花を前途に期待した。作家と読者との関係は単に需要者・供給者の関係ではない肉親的交流において見られたのであった。
再び文学の大衆化が文壇に論ぜられるに当って、大衆の文化的発展の諸要因が無視されると共に、作家との関係では、作品の給与者、被給与者としての面が強調されていることは、実に時代を語っている。
かようにして文学は批判精神などに要なき民衆の日常性に入らなければならないと云われる他方では、殆ど時と人とを同じくして、「大人の文学」という提案がされた。従来の文学青年的な純文学、神経質、非実行的、詮索ずきな作家気質をすてて、非常時日本の前線に活躍する官吏、軍人、実業家たちの生活が描かれなければならず、それ等の人々に愛読されるに足る小説が生れなければならないとする論である。「大人」という言葉も、文学青年的なものに対比して出されたのであろうが、そのものにおいて多分の文学青年ぽさを印象づける。大人の文学と云う場合
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