りかたの根本には、既に一種心得顔のところをはっきり出しているのだから。千六について「若い男が詩人になる経路もきまっている」という箇処のあたり、または同じ千六が「足を折るとまたしばらく詩人になった」というような人生的なようなまとめた文句にして表現しているところ。そういう心情のモメントの概括は本質において常識で、土台それでまとまりがつくなら小説はいらないと云えるような種類のものなのだと思う。この作者はそういう表現をも人の世の姿へうち興じての味として活かそうとしているらしいが、結局は全篇の基調がそういう作者の現実への当りかたから角度を鈍らされていて、青野氏の評言どおりねてしまったのだと思える。この「運・不運」は書き改められる、材料が惜しいと宇野氏が評しているが、書き改めるということの核心は、作者が現実と自分との角度をしゃんと明瞭にして姿勢を立て直し、改めてかかる、ということと同義なのである。
 この作品評で、宇野氏が生態の描写ということをよくないとして、おのずから系譜的作品がそれとちがうべきことを暗示していることも興味がある。文学精神の低さについて関心を示している青野氏が、この作品が生態描写
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