風に傾いていることは肯定して、生態描写そのものが、文学における発生に際して既に文学精神の或る低下に立っているものであることについては、黙していることも、考えさせるところがある。
 そして、評者たちの言葉が一致したことは、本当に新しいという作品のないこと。何もこの人が小説を書かなくてはならないと思えないような人たちが今日はどっさり小説を書いていること。そういう作者たちが、必しもこけ嚇《おど》しやはったりを試みないのでもない、という事実である。近頃の同人雑誌の小説について語られていることなのであるが、それらの言葉をじっくりと胸にうけとって考え深めて行って見ると、日本の現代文学がもっている次の世代の精神の地味ということについて、何かこわいようなところがある。
 何もこの人が書かなくてもと思える小説ということは、題材として特異な経験がそこにないというのではなくて、ありふれたような事象でもありふれなく生き貫く個々の文学精神が萎靡してしまっているということにほかならない。その人をして小説をかかしめている精神のコムプレックスの必然の感銘がなく、小説が字面で書かれているということである。一定の人生を見
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