vしようとする学界からの希望と文部省が微温的に改革を遂行しようとする意図が合致して一九四六年吉田内閣当時に学術組織改組準備委員会がつくられた。日本の官学学術機関である帝国学士院、学術研究会議、日本学術振興会などの長老組織を改組する目的で一五名の委員が選ばれたが、学界一般の輿論を反映するものでなかったので一九四六年十二月この委員会は解散した。
 一九四七年に入ってから民主的な学術研究組織を持つための運動が起り文部省科学教育局長の肝入りで「学術研究体制世話人会」がつくられた。世話人会は理、工、医、農、法、文、経の七部門からえらばれた四四人の世話人で組織されている。そして(一)新しい学術研究体制を確立する準備として全国的な審議会を組織する。日本の新しい綜合的学術研究体制の企画立案はすべてこの審議会で行う。(二)審議会の委員は研究者の中から民主的に選出する。
 このプランに従って上述の七部門および綜合一部門を加えて八部門からそれぞれの関係する学界、協会を選挙母体として一〇八名の刷新委員が決定した。
 一〇八名の刷新委員の分布をみると、あらゆる部分で東大が圧倒的多数を占めている。例えば法学部では東大教授一〇人に対して各大学研究所から僅か五人の委員が選出されているばかりである。工学部門も理学部門にも同じ現象があらわれている。世話人会は解散し、第一回学術体制刷新委員会が一九四七年八月首相官邸で開かれた。第二回総会では運営の方法、地方との連絡、体制に対する提案の処理などについて討議が始められた。
 このようにして学術体制刷新委員会は発足した。しかしこの委員会が学術の民主化のためにどれだけ積極的な熱意を示すかということについては一般からするどい監視を受けている。何故ならばこの委員会も従来の学閥ギルドそのままの選挙母体から選出されているからである。経済部門ではいくらか具体的に民主化が行われて民主主義科学者協会から選出されている人もあるが、法学でも歴史、哲学の分野においても古い長老教授が重要な位地を占めている。民間の新しい有能な研究者、私学の優秀な学者などは無視されている。官僚統制風なこの長老的ギルド的委員会を内外の力によって民主的な本質におきかえてゆくことが重大な課題である。
 この委員会が日本における学問研究の自由と思想の自由のために何処まで実力ある刷新を行うかということも注目されている。吉田内閣の反民主的政策のあとを受けて日本の学問の自由と思想の自由とはかならずしも前進していない。たとえば早稲田大学では新進有能な日本歴史家の講義を中止したし、法政大学、関西学院などにおいても研究の自由と思想の自由とは、また再び民主化の方向からそらされようとしている。これらの現象に対して委員会のどのような発言が行われるであろうか。
 日本の官学ギルドは、その封建性によって主観的な見識は非常に高いけれども生きた社会性に乏しく、このことが逆作用して戦時中日本の学者は客観的な真理への不屈さを失った。日本の官僚性の本質として日本の学者の経済的条件はきわめて悪い。教授たちの月給はインフレーションのもとにおいて一家の生活を支えかねる。そのために最近九州大学の皮膚科の権威である一人の博士が大学を辞職した。それより僅か前に東大の工学部のある教授がX線の照射による米の増収とか、宝石の質変化とかいう化学的根拠の確かでない研究を民間会社の利害とむすびつけて問題を起した。多くの研究所は資金難に悩んでいる。また実験用の資材の欠乏にも悩んでいる、最近東京の市民は配給の大豆粉中毒に苦しんだが、その毒素の研究のために必要な猫が十分手に入らないために研究がはかどらないという事実さえもある。大学研究室の助手は彼等が博士論文のために主任教授から指導を受け研究を続けている期間、殆ど月給がないに等しい状態であった。最近研究室助手の報酬がとりきめられた。
 日本の学術がその学閥ギルドから放たれて発展するためには、民間の諸会社、諸事業と結合することが予想されている。大学実験室と工場の研究室とが協力することがのぞまれている。しかしこれまでは自然科学者たちが民間会社と結合した場合、彼等のもっている官僚的習慣の裏返しの現象が起った。即ち彼等は科学者でなくなって科学的な技術使用人の立場に自分たちをおく傾向があった。そして日本の科学の重大な弱点である科学原則の小器用な実利的な応用を行った。科学の原理は外国において発展させて貰いつつ。
 日本における社会科学の研究史は、悲惨な歴史をもっている。近代国家の発生を、経済発達史の基礎の上に立って現実的に研究することは、日本の天皇制の絶対主義に抵触することであった。社会が科学的研究の対象であるということを日本の権力は認めたがらなかった。そして事あるごとに社会科学研究団体および社会科学者を弾圧した。偏見の世界的シムボルである「赤」という言葉が、もっとも適用されたのは、科学のこの分野である。社会科学関係の研究所、調査機関などは新しい日本の建設のために、社会についての理性的な理解のために、日本では特に重要な意味を持っている。経済的悪条件は、長年困難な立場におかれていたこれらの研究所、調査所の運営を今日苦境に陥しいれている。この事情はすべての文化活動家の協力によって一日も早く改善されなければならない。
 日本の学術を民主的に解放し日本の民主化と再建に現実的な動力となろうとして民主的な自然科学者、人文科学者を包括した「日本民主主義科学者協会」が一九四六年に結成された。協会に優秀な物理学者であり原子論の研究家である学者や、結核治療に関して卓抜な技術を示している研究者、進歩的な哲学者、学問としての歴史を日本に建設しようとする歴史家、生物学者、数学者等、将来日本の科学において多くの部門を指導し得る研究家たち凡そ二千名ばかりを網羅している。
 学会・研究所 京大附属食料科学研究所(一九四六年十月設立)は、とくに不良なる環境における作物の研究を行っている。
 財団法人日本ペニシリン学術協議会(一九四六年九月設立)。GHQからの指令に基づいて戦争中のペニシリン委員会は解散された。新しい協議会は各専門家の綜合研究のために八専門部を設けペニシリンその他抗菌性物質の綜合研究と調査に着手している。
 財団法人遺伝研究所(一九四七年四月設立)
 栄養食料学会(一九四七年五月設立)
 国立栄養研究所(一九四七年五月)は厚生省公衆衛生院の国民栄養部を分離拡張したもので、これに試験所、相談所が附属している。
 一九四六年以後久しく行われなかった学会、研究発表会などが各専門分野で盛んに行われ始めた。
 日本医学会第十二回総会が一九四七年四月、五日間大阪でひらかれた。この学会で注目されたのは原子爆弾症の報告であった。GHQのサムス、ハウ、バーレ各大佐の特別講演があった。
 日本物理学会の一九四七年度大会は東大でもたれた。その研究発表は約二四〇題目であった。
 日本薬学会が四七年五月に、金沢医大でもたれた。研究発表は約六〇題目であった。
 連合国の科学者たちが来朝した機会にもたれた講演会は次のようなものである。
 レーニン大学数学教授マジャーエフ博士の「ソ連科学について」(四六年九月三日、東大)
 米国原子爆弾調査団員P・H・ヘンスホー博士の「科学者の国際的責任」、同S・ブルース博士の「原子核発展に関して国際連合で討議されている問題」(四七年一月九日、東大)
 米国学術使節団員のW・V・ハウストン博士の「結晶体の正常振幅」なる講演が八月二十二日、またR・W・ソレンセン博士およびW・D・クーリッジ博士の講演会が八月二十三日、いずれも東大で行われた。
 科学技術 日本の科学技術界は現在主として資金と資材の困難から深刻な危機に面している。民間の研究機関は財閥解体と賠償によって全く活動を停止された。この困難を打開するために各種渉外連絡会が設立されている。連合国総司令部との連絡をはかり物質的、精神的な援助を得るために科学渉外連絡会が設立された(四六年六月)。同じ主旨のもとに工業、農業(四六年十月)、医学(四七年五月)がそれぞれ連絡会を組織した。
 大学附属研究所長会議(一九四六年十一月)。自然科学者技術者の経歴調査(一九四七年三月GHQの覚書による)等が行われた。文部省では四七年度科学試験研究費一五〇〇万円を適正配分するために科学試験研究協議会を開き、一九三件の重要題目に研究費の配分を決定した。この研究費予算と配分状況はまざまざと今日の日本の科学技術のおかれている窮状を語っている。
 発明奨励委員会や研究復興会議の設立などは何れも研究機関と研究者の窮状を救って平和日本の建設のために活動し得る条件をつくり出そうとして着手されたものである。
 全日本農業技術者連盟(四七年七月)が結成された。これまでの日本の農業がすべて国立試験場、農林省、農業会などという官僚でおさえられていて農民が自主的に農業技術をたかめ農業科学を向上させてゆくという可能が失われていた。この農業における官僚主義は農業収穫の供出に関する官僚制ともなってあらわれる。この新しい連盟が日本農業のこの弱点を改めてゆくことが出来れば幸である。
 アメリカ学術使節団は一九四七年七月日本に来朝した。六名の団員はそれぞれ専門の分野において日本の学界の再建に助言を与えた。


      ※[#ローマ数字3、1−13−23] 文学 映画・演劇 音楽 舞踊 美術
        スポーツ 文化組織 国際文化組織

        1 文学

 戦争は日本の現代文学を殺した。軍部は、ほとんどすべての作家を戦争目的のために動員して、強固に民主的立場を保ち戦争反対の見解をもっていると目された作家、思想家を投獄した。
 一九四六年一月、ジャーナリズムが戦時色を払拭して再発足をはじめたとき、そこに面白い現象が現われた。編集者たちは、戦争協力者でない作家を発見することに非常に困難した。同時に治安維持法廃止以前のプランにおいては民主的作家の作品を載せる自信もなかった。苦しまぎれの一策として一斉に老大家である永井荷風や正宗白鳥などの作品を載せた。これらの人々の作品は、民主的要素をもっているともいえなかったけれども、軍国的でないことは明瞭であった。
 永井荷風は、フランス文学の流れにたち、一九〇〇年代初頭の日本の半封建的な社会的空気に反撥しつつ、彼の抗議をデカダンスと孤独の中にとかしこんでしまった老作家である。正宗白鳥は自然主義作家として出発し、人間の醜悪さを暴露する作品を書きつつ、その人間の醜悪の社会的要因を探求しようとしなかった。彼は対社会的にはニヒリスティックであり、無感興な表情を保ちながら自分個人の生活を楽しむことについては卓抜な老作家である。永井荷風と正宗白鳥の上には、日本に芽生えた近代の精神が、あまり重すぎた半封建的社会の力にむしばまれて、旦那の気むずかしさに定着してしまった悲劇がみられる。ジャーナリズムが途方にくれたようなこの時期を貫いて、日本には民主主義文学運動の強い流れと、それに並行して日本の重くるしい封建の伝統に対して闘おうとする文学の潮流があらわれた。
 民主主義文学運動の中心は、新日本文学会であり、機関誌『新日本文学』のほかに四つの文学的刊行物を出している。新日本文学会は日本現代文学の進歩的な卓越した作家を少からずその会員としている。評論家として蔵原惟人そのほか活溌な数人の活動家・作家としての中野重治・徳永直・佐多稲子・宮本百合子・豊島与志雄、詩人では壺井繁治・岡本潤、その他戦後に活動しはじめた若い作家、評論家、詩人の多数がある。一九四七年度の注目すべき民主的作品のほとんど全部は、この会のメムバーである作家・評論家・詩人たちによって生れた。新日本文学会は、専門家のために多方面な研究会をもっているほかに、一年に数度文芸講演会を開き、地方の支部を中心に文学巡回講演も行っている。演劇、音楽のグループなどと共に勤労者の間に、文学のグループもどっさり出来ている。この文学グルー
前へ 次へ
全17ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング