今日の日本の文化問題
宮本百合子

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(例)騰《あが》っている。

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  序論 三つの段階
  ※[#ローマ数字1、1−13−21] 新聞・通信・ラジオ
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    国際文化組織

      序論 三つの段階

 一九四五年八月十五日から今日まで二年数ヵ月の間に、日本が経験した社会生活と文化の変化は、歴史に未曾有なものであった。今日の日本の文化を語る時、私達はこの二年数ヵ月の間に経験された日本民主化のいくつかの段階の推移と、その推移の間に現われた極めて日本らしい特徴をもったそれぞれのニュアンスについての理解を必要とする。
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第一期 一九四五年八月十五日――一九四六年三月頃まで。
第二期 一九四六年四月――一九四七年三月まで。
第三期 一九四七年四月――一九四八年三月頃まで。
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 第一期[#「第一期」はゴシック体] 日本の絶対主義的軍事政府が、根本的敗北を認め、ポツダム宣言を受諾した後に引続き、日本全土に起った混乱の時期であった。同時に極めて活溌な日本民主化の端緒があらわれた時期である。一九四五年十月「政治信教ならびに民権の自由に対する制限の撤廃」に関する連合軍からの覚書が発表されたことは、過去三十年近く日本の全人民の良心と言論・出版の自由を抑圧していた悪法、治安維持法の撤廃をもたらした。治安維持法の撤廃によって共産党員をはじめとする民主的進歩主義者および真面目なキリスト教徒に至るまで何万人かの罪人[#「罪人」に傍点]が解放された。日本における治安維持法の撤廃は、ヨーロッパ諸国の文化人が想像もできないほど日本の民主化と平和的再建のために決定的な意味をもっている。何故ならば、日本の絶対主義的な天皇制と侵略的な軍事権力とは過去二十六年間この治安維持法によって日本のあらゆる民主的、平和的発言とそのための運動とを弾圧してきたのであるから。彼等が満州侵略を拡大して中国に及び、遂に太平洋戦争にまで日本人民を駆りたて、今日の破滅に導くことができたのは、天皇制と治安維持法のおかげであった。
 第一の時期に行われた主要な日本の民主化のための努力は左のようである。
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1 治安維持法の撤廃および陸海軍刑法の撤廃。戦時特別法の撤廃。
2 主要戦犯容疑者の大量逮捕。
3 憲法改正。
4 民法改正。
5 刑法改正。
6 選挙法改正。
7 宗教団体法廃止。
8 全外交機関の引渡し。
9 財閥解体。
10 農民の徹底解放指令。
11 神道と国家権力との分離。
12 ラジオ、映画、演劇、新聞、郵便通信、宗教、教育等の戦時的統制からの解放。
13 軍国主義的教育の禁止と軍国主義的教育者の追放。軍国主義的修身・地理・歴史教育の禁止。軍事教練の廃止。軍国主義的体育(柔道、剣道)の正科禁止。
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 第二期[#「第二期」はゴシック体] 一九四六年一月一日に天皇が「元旦詔書」を発表して、天皇自身従来絶対主権者として己れに附されていた神性を否定し、所謂シムボルとしての天皇の性格を明らかにした。このことは、日本の民主化の発展にとって旧権力が発明した一つの狡猾な政治的ゼスチュアであった。ポツダム宣言受諾以来、日本国内および国外で天皇の戦争責任の有無と天皇制存続の可否論は重大な関心をもって討議されつつあった。国内の民主的見解は、天皇が戦争の責任を問われるべきものと判断した。宣戦の詔勅に署名したのはほかならぬ天皇であり、天皇の名においてすべての軍事行動はなされたのであった。
 絶対主義的な天皇制の教育による社会慣習のために従来の日本人民は、人民を隷従させる諸命令、諸法律を無条件に受け入れてきた。天皇制が封建制と近代資本主義的帝国主義の悪質な統一においてファシズム化し、絶対権力をもっているからこそ、長年の戦争行為を行いえたのである。ポツダム宣言の正直な履行、日本の民主化と平和のために、反動の伝統的温床となる天皇制は廃止さるべきであるという見解は、強力な国内の民主的輿論の一面であった。
 第一期を通じて国民的討論の中心におかれた天皇制問題は、天皇および旧支配階級に深い脅威となっていた。そこで彼等は人民の社会的感覚があまり民主化されないうちに、すなわち人民の人間的権利についての自覚は目覚めつつあるが、習慣に根ざした隷属性や迷信が、あまり見事に払拭されてしまわないうちに、天皇および天皇制を妥協的な形で再確立するのが賢明であると考えた。「元旦詔書」はその手はじめとして決して不成功ではなかった。一月三日の夜、NHKの報道放送で文学博士和辻哲郎は、天皇制護持の哲学上の基礎づけを行った。文相安倍能成は二月十一日、日本の建国記念日とされている日に、大和民族の優秀性を意味し天皇制の伝説の発祥である建国神話の再認識を求めた。岩波書店出版の雑誌『世界』三・四月号に文学博士津田左右吉の天皇制護持の立場からする皇室論があらわれた。当時の教育局長田中耕太郎は教育勅語を自然法的なものとして、この勅語が国民教育の基準となり得ることを主張した。戦時中は中立的立場に立っていた学者、または津田左右吉のように日本歴史の解釈において治安維持法に触れそうになり著書の発売を禁止されていたような学者が、天皇制護持のための活動を行ったことは、天皇制に対する意見の動揺している一般市民、学生、知識人にとって、その判断のはかり[#「はかり」に傍点]を天皇制承認に傾かせるおもり[#「おもり」に傍点]となった。
 政府はこのようにして準備した社会的雰囲気の中でとり急ぎ第一次憲法草案を発表した。この憲法草案の特徴は依然として天皇の特権を主張しているところにあった。
 畸型的な民主化憲法が草案として討論されている間に、天皇は自身と旧勢力のための選挙運動をはじめた。東京都下その他各地方への巡幸がはじまった。これまでの神としての天皇から人間天皇への困難な転換をおかしながら。
 この期間もっとも進歩的な民主的見解を代表する日本共産党は、天皇制の廃止を主張した。しかし天皇およびその一族の処置の問題は今後の全日本人民の意嚮によるものとした。ポツダム宣言受諾後最初に行われた四月初旬の総選挙に当って保守的政党のすべてが団体の大小を問わず、その政策として主食の配給改善とインフレーション防止と天皇制護持とを掲げた。日本社会党も即時社会主義実現と並行して天皇制護持を綱領とした。はじめて政治の舞台に登場しようとする婦人代議士立候補者たちも婦人の問題は婦人の手でというスローガンとともに天皇制を護持した。日本中に数百万の未亡人を出し、孤児を出し、家庭を崩壊させたのが天皇の宣戦詔勅であったのに。
 このようにしてきわめて短期間に、日本の民主化の純粋性は失われはじめた。本質的に保守と反動の政策が民主化の道へ大幅に流れ出したのはどういう原因からであったろうか。このことはもちろん国内の根強い封建的伝統を決定的な理由としている。同時に金の匙から食べていた者は何時になっても彼等の金の匙を捨てようとは欲しない。これは世界共通の現象である。その上、七十年以上封建的な絶対主義と軍国主義に馴致され、最近数年は半狂乱の戦争熱であおられていた日本の人民にポツダム宣言を受け入れさせ、軍隊を解散し、敗戦を認めさせるためにはその半封建制そのものに利用価値があると考えられたのであろう。天皇がラジオを通じて敗戦を認めポツダム宣言受諾を宣言したことは、その一つのあらわれであった。一九四五年八月以後の混乱期に東久邇宮を内閣の首班としたのもこの方法の一つであったろう。日本の民主化と国際平和のために、日本における天皇制の利用がなお真実な価値をもっているであろうか。このことは、今日において、世界の良心的なすべての民主主義者にとって正しく判断されるべき課題である。民主的な占領政策の実現と日本の民主化を実現するために天皇制が最後の奉仕を行い得る限界はすでにすぎている。日本国内の旧支配権力は天皇に対する連合国側のこの利用的譲歩の技術に乗じて全くそれを悪用している。彼等は一九四五年八月以来、公職から追放された政治的・軍事的有力者の利害を結集して裏面に反動的支配勢力を組織した。
 人民の眼からかくされている上層部の裏面的な政治勢力は、内閣および議会をかいらい[#「かいらい」に傍点]として表面上は財閥解体令を受け入れながら緊急金融措置令によって新円切換えを行い、さらに半年のうちに第二回の金融措置(一般に預金封鎖とよばれた)を行って特権的階級に手厚い保護を与えた。財産税の処理方法は多額納入者により便宜な支払方法を決められた。その上、財産税の用途には軍需生産業者の損失[#「損失」に傍点]に対する国家の補償が含められた。
 一九四六年三月以降第一回金融措置令以後インフレーションは急に上昇した。物価は目立って高くなった。税率が引き上げられた。これらすべての事情は、戦争によって経済的支柱を失った多くの家庭をはじめとして全人口がそれぞれの角度から戦災者である勤労階級の生活をますます急迫させた。一九四六年から四七年の二月に至るまでの時期、日本全国に待遇改善、賃金値上げ、職場の民主化等を主眼とする労働争議が続発した。その中心に合法的な活動を認められるようになった労働組合が立った。人民の創意から食糧事情の改善を政府に要求する大示威運動も行われた。
 吉田内閣は人民が生活危機によって激昂している時局を収拾するために、GHQのあっせんによってアメリカからの食糧輸入を求めた。同時に社会秩序保持の声明を行った。読売新聞社の争議が社長馬場恒吾と政府との協定によって弾圧され、食糧メーデーの時使用されたプラカードの天皇諷刺の字句を理由として、それを書いた労働者が不敬罪で起訴された。当時吉田首相が一記者に語った言葉は深刻に日本の民主化の逆流現象を反映している。彼はインターヴィウにおいて、次のように語った。「占領第一年を回顧するときわれわれ老保守主義者は民主主義の一大進歩を認める。余は昨秋外相に就任した際は連合軍の政策に対しある程度の疑念を抱いていたが、現在ではわれわれは民主主義を当時より安易な気持で受入れることが出来る」(『日本経済新聞』九月七日号)
 労働法における勤労階級の権利を、資本家とその権力の利害と妥協させる一機関として中央労働委員会が組織された。労働者の争議に対して経済者は暴力団を使用した。表面上解体された特高警察はより陰険な謀諜網をもって秘密に再組織されている。GHQの三字は支配階級によって自身の官僚主義を拡大強化する便宜に使われている。
 一九四七年二月一日を期して行われようとした全官公労働組合中心のゼネストは、その現実的原因を生み出した日本の支配者の失政をより少く追求ししつつ勤労者の労働運動の自由の範囲を縮少して限定した声明によって抑えられた。敗戦国である日本において労働運動の自由が認められて一年半を経過したとき、労働者のゼネスト権が否定されたことは国内および国際的に資本主義の経済事情が急速に危機に向っていることを証明している。
 この間に、議会では憲法改正案の審議を進めつつあった。一方に天皇制を護持しつつ、民主的憲法を制定するという矛盾した仕事のために、様々の紛糾を重ねた。衆議院では、この憲法改正案審議について、滑稽な幕間劇が行われた。日本社会党は、社会主義とともに天皇制護持を強調して来ていたところ、思いがけなく、改正憲法の基本的性格として「主権在民」の規定をするべきことを、保守党
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