曹ナある。何故なら従来の軍国調と絶対主義を捨てるように見せながら、あらゆる歴史上のテーマの扱い方の底にやはり過去の思想を保存しようとしているからである。この傾向は一九四七年以来日本民主化の全面に表われた注目すべき特徴である。例えば『くにのあゆみ』で日本の建国神話を科学的な事実として認められないといいながら「つまり神話は歴史をつくるもとの力になっている」と実例ぬきに結論している。この部分は東京文理大の和歌森太郎助教授が書いたものである。また日本の社会発展の全時期を通じて勤労階級のおかれていた生産事情の現実、身分関係、隷属と反抗などの現実がとらえられていない。歴史の人間的な内容である発展のための矛盾摩擦の現実が伝えられていない。支配的な権力と人民との一致しまた相反する利害の関係も描かれていない。すべての事件が非常に表面的になめらかに扱われている。まるで春、草が芽ばえて悪天候に害されもせずのびていくような筆致で歴史が書かれている。
 軍国主義精神を歴史観から排除するということは一つの国の社会発展の歴史の現実をゆがめて対立や矛盾のなかったような作りばなしをすることではない。民主的精神が教科書作製者によって取りちがえられている。人民の生活の消長について現実的な記録を支えない民主主義教育というものは存在しないわけである。『くにのあゆみ』が一般識者達から批判をうけはじめたとき、文部省関係者の間には次のようなデマゴギーが行われた。『くにのあゆみ』はGHQで承認された唯一の歴史教科書であるからそれを批判することは許されない、と。これは事実と違っている。文部省は『くにのあゆみ』をつかって新しい歴史教育をするのだといっている。『くにのあゆみ』を教えるとはいっていない。歴史教科書は早い機会に改訂される必要がある。
 対日理事会において中国代表が『くにのあゆみ』について一九二九年以来の日本軍部の満州中国への侵略を偽瞞的な満州事変、中日事変などという項目で扱っていることについて抗議した。『くにのあゆみ』において満州事変以後の取扱いは虚偽的なほど皮相的に扱われている。「軍部の力が政治や経済の上にはびこって五・一五事件や二・二六事件がつづき」その結果東洋の平和が乱れたというふうに書かれている。しかし現実はこのように簡単でないことは世界周知の事実である。明治以来侵略的な軍事力で資本主義を保ってきた日本の悲劇は上述のような説明では片づかない。平和を愛する情熱を若い世代がその感情の中に持つために『くにのあゆみ』は民主的人民生活の発酵力を全く欠いている。
 学生生活の危機 戦争によって家庭の経済的安定を失った日本の中産階級は、驚くべき早さで貧困化しつつある。従来中産階級の家庭から出身している専門学校および大学の男女学生の生活は、深刻な経済的困難に面している。東大の調査によると、全学生の九六パーセントが働きながら学ぶことを必要としている。これらの学生の三二パーセントが、全生活費を自力でまかなわなければならない。学生の生計調査によれば、全費用の六〇パーセントが食費に支出されなければならず、二二パーセントの書籍代は今日の日本で四、五冊の本を買うだけの金である。学生らしい娯楽のために――スポーツ、映画、音楽、演劇などのためについやし得る金は、五パーセントにすぎない。すべての学生は、最低五〇〇円から一、〇〇〇円の収入を得ようと努力している。このために、学生たちに与えられる職業はどんな種類のものがあるだろうか。家庭教師、通訳、翻訳その他の知的労働の範囲から、生活の必要は学生たちを肉体労働へ追いたてている。東大の職業を求めている学生の三六パーセントは、肉体労働をもいとわぬとしている。女子学生は、知的労働のほかに進駐軍女子寄宿舎の徹夜夜警、洗濯婦等に働くほか、街の小工場の臨時女工として家内的な工業に働いたりしている。学生たちが苦痛とするところは、これらの労働が安定性をもたないことである。半年以上つづく可能性があり、それによって学生の精神的安定も保たれる労働をみつけているものは全体の五〇パーセントにすぎない。
 男女学生は、自分たちの労働の必要を安価な労働力として利用しようとする政府の方針に抗議している。たとえば、一九四七年の十月末に、逓信省は東大に一五〇名以上何人でも働きたい学生を要求してきた。四時間労働で三〇円、中央郵便局における事務という名目であった。学生たちは午後四時から四時間労働で三〇円とるということに誘われて応募した。そしたらば、一日おいて全逓のワイルド・キャットが始った。学生たちは非常におどろいた。彼等は自分たちが労働者の生活権侵害者になったことを恥じた。そして政府の目的を発見したのであった。さらに学生たちは、四時間三〇円という賃銀が労働力のダンピングであったことも発見した。日傭労働は一日二五〇円であったから。
 新制中学における学生の代用教員が、やはり同じように教員の生活の脅威となったことについて悲しんでいる。彼等は文相がどんなに学生の政治的意識を打破しようとしていても、このような彼らの日々の経験から深い社会教育を受けつつある。すべての学生は、学生生活の危機がとりもなおさず広汎な勤労人民の生活危機であることを自覚した。学生たちは学校の門とヤミ商売の門とをきわめて近い距離において発見した。したがって、これらの若い良心が資本主義社会のモラルについて、辛辣なそして真実な批判をもっていることは当然である。
 経済的困難から退学した学生たちは、たいてい数人の家族をかかえて悪戦苦闘している。次のような手紙の一節は無限の訴えをもっている。「国家の大学が国家の名において文科系学生のみを戦線に配置した、そのあと始末を全く省りみないのは、矛盾ではなかろうかと思います。我々はあの当時どんなに無限の感慨をもってあの時計台をふりかえりふりかえり屠所にひかれて行ったでしょう」。今日の働かなければならない学生たちは、はっきりと「働きながら学べる大学」を求めている。そしてこの希望は、日本の民主化された経済再建の具体的なコースの中の一部分であり、労働者の生活安定のための諸闘争こそ学生のチープ・レーバーを救い、働きつつ学ぶ社会をもたらすものと理解しはじめている。学生たちは、日本の勤労人民の一部として、自分たちの運命を開拓するために必要なみちを発見しつつある。
 幼稚園教育 戦争中日本の幼稚園教育は殆ど潰滅した。現在大都市を中心として極めて僅かの幼稚園が復活しているだけである。一般主婦は子供を幼稚園にやって時間の余裕をつくり何かの内職をして千八百円ベースの困難な生計を補いたいと希望している。しかし幼稚園がかりに近所にあったとしても多くの親たちはそれを利用する余裕がない。昨年(一九四七年)四月一ヵ月三〇〇円費用がかかった。さらに母達の困難は子供の衣服の問題である。
 盲聾教育義務制 日本に推定一一万二〇〇〇名の盲聾児がある。百数十万人の近親者がある。一九二二年勅令で盲聾学校令が公布されて各府県毎に一校以上の盲聾学校を設置する義務を明らかにした。二六年を経過した今日、東京、北海道はその義務を果していない。少数の民間人の努力によって現在全国に一四九校、教職員一、二〇〇名を持つばかりである。これは日本の教育が人類的福祉の見地に立たず富国強兵政策によっていたからであった。一九四六年に盲聾義務教育制の問題がとりあげられた。しかし何の実際的進行もみないで一九四七年が経過し本年四月からようやく第一学年が発足されることになった。大蔵省は一億円にも足りない予算をまだ決定しない。文部省は準備会をもったばかりである。もし現実に不幸な子供のための義務教育を実現するならば最小限度八〇の教室と教員七〇〇名が補充されなければならず、それだけで予算はいっぱいである。
 耳のきこえない子供の教育方法としてヨーロッパ風の読唇法に加えて日本語の特色を科学的に研究した口話法が発明されている。しかし未だに旧式な手真似教育(手話法)が行われていて、これでは日常の最低生活を満すだけでとても精神的な文化には触れられない。アメリカからヘレン・ケラー女史が来朝することが伝えられている。関係者たちは彼女の来朝が文部省と一般人の心を目ざめさせて、日本に生きている不運な子供たちの運命をより明るくすることに役立つことを願っている。
 成人教育 文部省社会教育局は各都府県の社会教育課と連絡をもっていろいろの講習会、公民館運動、リクリエーション運動などに努力してきている。婦人の民主化のための努力もされてきている。しかし全般的傾向をみると、すべてこれらの成人社会教育の方向はいってみれば人民の自主的な民主的発展に対して一定の柵をこしらえる任務をもっている。リクリエーション運動の指導は地方警察と連絡すべしというような反民主的な本質をもっている。
 片山内閣は吉田内閣から引きつづいた非民主的社会教育方針に加えて耐乏生活、挙国一致、生産復興等を中心とする新日本建設国民運動や新生活国民運動などを官僚行政の線を通して行おうとした。新日本建設国民運動の提案懇談会の際、「民間人」と称する代表者の中に元治安維持法関係の役人が参加していたことは会の本質を語るものとして注目された。片山内閣はこれらの統制的な社会成人教育の方向を示しただけで総辞職した。
 政府の関心は思想としての社会成人教育にあって戦争による不具者の職業的再教育は放棄している。復員軍人、引揚者の職業再教育が全くみすてられていて社会悪の発源地となっているとおり、戦争による不具者の人間的再起がみすてられていることは日本の反面の限りない暗さである。戦争未亡人の職業補導としての成人教育も殆ど行われていない。浮浪児の再教育は現在の段階ではその必要の千分の一にも及んでいない。当局はこれらの子供の教育と収監との間にある本質的な区別を理解していないようである。このことは生活難から売笑婦になった若い娘の再教育の場合についてもいわれる。日本のこの種の再教育がいつも冷酷であり囚人扱いであり、従って効果をあげないのは日本の封建的なまた儒教的な形式道徳観が、指導者の心情に残っているからである。
 自由大学 一九四六年以来各大学、専門学校などではさまざまの形で自由大学を開いた。東大、早稲田、慶応その他の大学が学生と教授の協力によって一般の聴講者を集めて政経、文学、美術、自然科学、技術等についての連続講演を行った。夏期休暇中帰省する学生、教師などと協力して各地方でも夏期大学や農村講座がもたれた。労働組合では、特に婦人部を中心とした啓蒙的な講演会をしばしば持ち、各学校も中等学校をはじめとして校外から講師を招いて文化的講演会を催した。
 民主的な専門研究団体は自身の連続講座または公開研究会を開いている。この数は非常に多い。そして学問上の利益も少くない。

        2 国字・国語

 日本の国字の問題は従来使われていた漢字をどのように制限して簡単な文字を使った文章を書けるようにするかという点にある。漢字を覚えるために義務教育の多くの時間がついやされてきた。従来、天皇が発表するすべての文書はもっともむずかしい漢字を使って書かれ、普通の教養をもった者では読めない文章によって書かれていた。このことは古代の中国人が漢字で文盲の民衆を支配してきたのと同じ効果を絶対主義下の日本人民に与えてきた。思想は支配権力に属し、その表現は何時も半分は神秘的な感じで行われてきた。日本は、その野蛮さからぬけなければならない。一般人が社会生活を営み言葉をもって自分の意志を表明している以上、そのままの文章が役に立つような民主化が行われなければならない。一九四七年に新聞その他に使用される漢字が制限された(四六年十一月五日文部省国語審議会総会)。
 日本語は漢字のほかに、複雑な仮名づかいをもっている。書かれている仮名文字と発音とが別々で、書かれている字の通りに読んだのでは意味が分らない場合が少くなかった。たとえば「蝶々」という仮名は、「てふてふ」と書かれた。それだのにこの「
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