オの目にあった。教科書を必要なだけ出版することは日本の出版界に課せられた義務である。
著作権擁護の動きが目立った。幾つかの雑誌で原稿改作訂正、無断掲載、偽作等の事件があって、著作家組合(一九四六年十月発足)に提訴された。一九四七年八月には夏目漱石の遺族が漱石の全著作に対する商標権の登録申請を行って出版のみならず文化分野全体にショックを与えた。著者の死後二五年で遺族の版権所有が消滅するので夏目家は彼等をこれまで養ってきたその権利を新しい形で確保しつづけようとした。これらを機会として国会文化委員会では出版文化に関する小委員会を設け著作権法および出版権法の審議をはじめた。
翻訳権 日本政府は戦時中情報局、外務省その他の役所が先頭に立ってナチズム、ファシズム宣伝のために国際的な翻訳権の協定を無視した翻訳出版を行った。同時に民間にも正式手続を経ない翻訳の悪風があった。音楽に関する翻訳権問題は数年前の「プラーゲ旋風」の時に一応の国際基準がたてられた筈であった。一九四六年、日米間にあった翻訳自由の条約無効が言い渡されてから、まだ日本は各国との間に翻訳権の原則的とりきめが行われていない。現在は著作権が既に消滅している著者のもの、および原著者から翻訳発行の許可があってGHQの民間情報教育局がそれを承認したものに限られている。この事情はたださえ長年の封鎖状態におかれた日本の文化と民主化のために重大な遺憾事である。日本の真面目な学者、専門家および文化人は、日本と各国間の翻訳権問題が一日も早く原則的解決をみることを待望している。
※[#ローマ数字2、1−13−22] 教育 国字・国語 宗教 科学
1 教育
日本の教育問題はきわめて重要な数個の課題をもっている。第一は根強くはびこっている絶対主義的軍国主義教育を根底から払拭すること。第二に保守的反民主的教育精神の伝統を打ちやぶること。第三には封建的な教育思想を打破するとともにポツダム宣言に明示されている通り人民的な民主主義による民族自立の精神を養成して世界的な規模で平和建設に参与しうる次の世代を育てることなどである。第一の軍国主義教育の払拭のためには一九四五年十月二十二日連合軍総司令部から教育の民主化に関する指令が発表された。その内容は大体次の通りである。教育内容の訂正、軍事教練の絶対的廃止。軍国主義的体育の廃止(正課としての柔道、剣道等を含む)。職業軍人、軍国主義者、占領政策反対者の罷免、自由主義教育者の復帰、教育課程の改訂。さらにつづいて一般復員軍人の教職への新規採用に関する日本教育非適格者追放指令が発せられた。一九四五年十二月には国家権力と神道との分離に関する指令が出された。続いて封建的な絶対主義と軍国主義的な服従を強いてきた修身の授業停止、侵略的な地理と天皇一族の絶対性・日本民族の架空な優位性を教える日本歴史の授業が停止された。
第二の教育の民主化のために一九四七年のはじめスタッダード博士を団長とするアメリカ教育使節団が来朝して、短期間であったが、有益な見学調査を行ってその報告書が世界に発表された。この教育使節団の報告にもとづいて軍国主義的日本の教育が特に長い戦争中殆ど教育らしい教育を行ってきていなかった実情が暴露された。六年間の国民義務教育を終った日本の人民がその実力は僅か四年間学校へ通った者と等しく、高等学校の学生の実力は中学の三、四年生に匹敵し、したがって大学卒業生の実力もきわめて低下していることが証明された。戦争中、国民学校上級生から中学、専門高校の男女学生が戦争遂行のために様々の形で動員され一週間に学習する日は一日二日あるかなしの有様であったことを思えば全体の学力低下はさけられない結果であった。
教育使節団の調査にもとづいて日本の教育制度の中央集権的悪弊――文部省の絶対的支配――を除くために教育権の地方移譲、九年制の無料義務教育の施行、ローマ字の採用、教科書の民主化等の目標が示された。
軍国主義的教育方針の変更を立証するために文部省はその時までに不適格教員六五〇名を追放した。そしてまず新しい日本歴史教科書の編纂に着手し、教育課程の更新の研究をはじめた。
戦争中軍事目的のための科学技術者速成のためにさまざまの形で特別科学教育を行っていた。婦人のためにも行われていた。中等学校にも行われていた。この軍国主義的教育は四六年十一月廃止された。
日本の封建的伝統である官学崇拝の悪風を排除するために私学の独自的教育振興を目標とする日本私学団体総連合会が結成された(四六年十二月)。組織は私立大学連合会三九校、私立専門学校協会一七九校、私立中等学校連合会および私立青年学校連合会一、一五一校、私立初等学校・私立幼稚園総連合二七校によって構成されている。私学総連合会は、大学設定基準に関する全大学協議会をもって私立大学設立基準の研究をはじめた。このことは特に女子教育の向上のために重大な関係をもっている。二つの私立の女子大学、数多い私立の女子専門学校等は従来男子の受ける教育水準よりも常に低い水準によって教育されてきた。科学、人文各面における男女教育の差別は、社会人および職業人としての男女の間にはっきり実力の相違をもたらしてきた。そのために職業上の地位は婦人のために経済条件とともに常に不利であった。僅かに官立大学の一部が女子学生を入学させていたが、それは実質的に日本婦人全般の教育水準と社会的地位の向上のために役立つほど広範な影響をもたなかった。私学総連合会は私学振興の財政的基礎を確立するために教育金庫法案を各党協同で一九四七年七月国会に提出した。
私立大学の昇格申請が最近においてなされたが、注目すべきことは申請の全部が文科系統の学校であることである。これは大学として要求される設備が、理科系統の学習のために必要を満しえないという内容の貧困さからきている。
同時に、官立大学の地方自治体への委譲の問題も地方自治体の経済能力の低さから困難に面している。日本の一つの県の経済的、文化的単位は、アメリカにおける一つの州のもつ単位としての可能性と全く異っている。
日本教育会は、従来文部省官僚と一部の教育家の中央集権的保守団体で、戦時中軍事目的のために強力に奉仕した。連合軍司令部からの勧告によって新しく全国府県支部に七〇〇名の協議員を選挙するように指令を発したけれども、日本教員組合は反対声明して教育会解散要求をだした。
教員再教育のために、文部省は四六年十月から四七年三月まで全国視学官、市視学およそ一、〇〇〇名を行政区別に分けて教員の再教育を実施した。教師の質の向上のために、従来の師範学校教育および高等師範教育の批判が起った。四年制の教育大学設置案が全国師範学校長会議と全国教育学生同盟大会で決議された。
一九四六年二月、文部省は高等学校令を改正、女子も高等学校に入学出来ることとし入学資格その他詳細を発表した。男女共学制は四七年四月から発足した新制中学にも適用され、指定校は男女共学制を行っている。
一九四五年八月以後、すべての学校では学内の民主化運動が活溌に起った。東大をはじめ多くの大学、専門学校で戦争中教壇から追われていた進歩的な学者の復帰が行われた。反動的な学内の諸習慣、制度について学生は自主的な改善を求め研究の自由を確立しはじめた。
天皇および皇族、華族の憲法上における地位の変化は学習院および女子学習院の貴族的な運営法に根本的な変革を起した。両学習院は宮内省の管理を離れた。財団法人として、新設の大学部を併せ六・三・三・四の新学制で出発した。四七年四月、一〇一年の伝統を捨てて広く一般に開放された。しかし現実に新しい学習院へ入学する子供たちは決して「一般人」の子供ではない。その富が戦争中のどういう非人道的な行為によって溜められたにせよ、新しい富豪として現れている階級の子供たちであり、宮様と同じ学校[#「宮様と同じ学校」に傍点]というところに虚栄心が満足させられている。
学校の民主化に関する学校争議は一九四六年から七年にかけて全国のあちらこちらで起った。女学校の小さい女生徒も学内の民主化を要求する彼女たちの若い声で教師と父兄を驚かせた。
日本の教育者の待遇は小学校教師から大学教授に至るまできわめて薄給である。教育者の給料における男女差別も大きい。もっとも生活の苦しい小学校の教師が積極的に動いて一九四五年につくられた民主的な全日本教員組合と時を同じくして、文部省ならびに日本教育会の方針に従う保守的な日本教育者組合が組織された。この二つの組合は約一年の間その進歩性と保守性との間に種々の摩擦を経たが、一九四七年はじめ頃から合同への機運が動き、四月に二つの組合と、大学・高等専門学校教員組合の合同が実現されることになった。五十万人の全国教職員の希望していた教員組合の単一化が行われ、日本教職員組合が誕生した。元来、民主的な全教組の活動を妨げるために文部省と日本教育会が組織した日本教育者組合が、全教組と合同してさらにより大きい単一の教職員組合を持つに至った動機はきわめて興味がある。文部省によって組織されている教育刷新委員会が四七年四月、議会に教員組合の団体協約を破棄しようとする建議を行ったことに対し、その点については利害を一にする二つの組合は文部省に対して共同声明を行った。つづいて日本教育会の二度目の組織変えに対し、また教育刷新委員会のもくろんでいる保守的な教育者組織に対する反対のために二つの組合は共同声明を行った。政府と文部省とは手づくりの組合の基礎の上に立って全日本の教育者と教育の方針とを再び保守にねじむけようとした。その努力がかえって二つの組合を発展的に結合させた。
この興味ある事実が語っているように、政府と文部省とは表面日本教育の民主化を試みているような振りをしながら、事実上何とかして、封建的ではないまでも、余り民主的でない範囲に人民を保つ程度の教育を行おうと努力しつづけている。この事実は一九四六年一月の天皇の放送した「元旦詔書」につづいて文学博士和辻哲郎が行った「哲学的天皇制護持」の講話、安倍能成の二月十一日に行った「建国神話擁護」、東大総長南原繁の行った「大学生の社会活動抑制」の演説、文部省教学課長会議における当時の学校教育局長田中耕太郎の「教育勅語護持の言明」、さらに三月上旬新憲法草案の公表に乗じた「新教育勅語」発布奏請の計画など一歩一歩の足どりは組織的に教育民主化の発展をはばんでいる。アメリカ教育使節団がきた時文部省は用心深いもてなしの計画をたてていて、儀礼的な歓待に時間をつぶさせて極力日本教育の現状から眼をそらさせようとした。真の意味で民主的な文化人や団体ではこの使節団に会う機会をもたなかった。「全教組」を中心として民主的勢力は協力して八項目にわたる「日本教育の現状」という報告書を手交し、建設的な意見を伝えた。
吉田内閣の時代に入って全政策が反民主的方向をとるにつれ、前内閣のときその保守性で着目された田中耕太郎が文相に立身した。田中耕太郎は当時の方針を教育に生かして、「教育権」の独立を主張した。教育の政治からの独立という主張において、彼の政治的立場を明瞭にした。同時に田中文相は宗教教育を主張した。政府は議会で教育再建に関する決議六項目を発表したがそれは具体的に教育民主化を推進するようなものではなかった。四七年八月十五日に進歩党が提案した宗教情操教育に関する決議案は、田中文相の宗教護持説をただ卑俗化したものにすぎず一般の不評を買った。吉田内閣は自分の文部省の手で文教改革の骨組を決めてしまうことに努力した。きわめて保守的な教育刷新委員会が出来たのもこの結果であるし、人文科学振興委員会が設けられたのもこの意味にほかならない。
公民館運動も全国に起された。外見は全国的に文化センターをこしらえる運動のように見うけられた公民館の「設置運営のしおり」をみると、この本質が民主的とはいえない文化統制を意図したことは明瞭であった。公民館が協力者として連絡をも
前へ
次へ
全17ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング