ス貴族や「もう一度日本が戦うと仮定すれば、私はもう一度同じあやまちを繰返すであろう」と公言している石川達三を演壇に立たせることに対して、驚きと不快の心もちを抑えることが出来なかった。この異様なユネスコ憲章を愚弄したような第一回集会に、森戸文相は祝辞を与えた。
ユネスコ運動者の第一回の試みは、彼等が予想したよりも一般からのきびしい批難を蒙った。第一回の会合のために組織されたグループは、表面上一応解体したと告げられた。新しく東北地方の大学教授を中心とするユネスコ協力会が仙台に生れた。そして全く新しい構想で東京においてもユネスコ協力会を組織するということで、一九四八年のはじめ準備会が開かれた。準備会に出席した人々は、何処かでこしらえあげられていた委員の名前が読みあげられた時、意外の感に打たれた。委員の中には、もと外交官、商人などのほかに、また例の貴族と石川達三が加えられていた。そしてユネスコ憲章は、原則として団体加入であるのに、日本のユネスコ運動者たちは、理解されにくい彼等独特の理由をもっているかのようにがんこに民主的団体の団体加入を拒絶している。
今日までの経過をみると、日本におけるユネスコ運動は、一般の人々に希望よりも心配を与えている。人々は自分たちがよく選んで健康な種子をまこうと思っていた畠に、何時の間にか誰かの手で消毒されていない古い種子がまかれてしまっているのを発見した農夫のような苦痛を感じている。すべての国で農夫は、虫の喰っている種子を嫌う。文化運動についてもこれは同じことである。非民主的な日本の政府は、日本におけるユネスコ運動が、人民のアクティヴィティの一つとして表現されることを極端に嫌っている。日本の一般人が、国際組織について十分知らされていず、はっきりした定見を持たないうちは、文部省ユネスコ[#「文部省ユネスコ」に傍点]で日本の文化運動を統一しようとしている。即ちユネスコの名をかりて文化統制を行おうとしている。
パリ総会における討論の内容を検討すると、そこに暗示的なさまざまの問題がある。国際文化提携の組織として、ユネスコがもし一つのある思想や文化によって国際的統一を結果するような方向になれば、ユネスコの本来の人道的理想は根柢からくつがえるであろう。人類の文化的富は、地球上の各民族がそれぞれの社会的条件と歴史によって、ますますゆたかに生み出す独自的な文化の総和でなければならない。一国内におけるユネスコ運動は、その国の内部にある反野蛮的なファシスト的なすべての文化的善意をたすけ、その活動を高める作用を持たなければならない。文部省のユネスコ運動を真に民主的で自主的な、人類の国際文化運動にまで改善してゆくことは日本における民主的な文化活動の義務である。[#地付き]〔一九四九年一月〕
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追記
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この「今日の日本の文化問題」が、書き終えられたのは一九四八年三月下旬であった。それから後こんにちまで五ヵ月ほどの間に、日本の社会情勢と、文化の状況とは一つの新しい段階に入った。したがってこの報告がより完全なものとなるために、以下の追記を必要とする。
[#ここで字下げ終わり]
本年度の国庫予算は六月下旬に議会を通過した。総額三、九九三億円である。前年度の予算総額は二、一四三億円であった。ほとんど倍額に近いこの予算総額は、最近における日本のインフレーションのすくいがたい悪化を物語っており、同時に一般人民の極度な経済的困窮を示している。あらゆる形で大衆課税がとりたてられ、たとえ所得税の税率がいくらか引き下げられたとしても、汽車賃の二倍半までの増額、公定価格の七割ほどの引上げ、通信料の四倍、煙草の二割から八割の値上げは、あらゆる家計を破綻させている。とくに本年度の悪質大衆課税として批難をうけながらついに国会を通過した物品取引税は、総額二七〇億円の収入を予定されていて、この取引税が時計の修繕にも靴の底なおしにも、映画や芝居をみるときにさえも消費者の負担となってくる。各取引ごとに一パーセントとされているこの税も一年間の負担を通算すれば、各人四パーセントから五パーセントの支出となる。赤字家計は三千七百円ベースでは支えきれない。文化面で一冊の書籍は、これまでの定価になかった五パーセントの取引税を読者のポケットから取ってゆくことになった。
一、以上に述べたような経済事情の悪化は、小規模な出版業者の没落と、没落しまいとするもがきから一層粗悪なエロ・グロ出版を行わせる結果になった。日本出版協会は、日本民主化のために有益な出版を鼓舞しようとするたてまえから、さる六月エロ・グロ出版物追放の仕事に着手した。この仕事は、一応すべての人の常識にうけ入れられる性質をもっている。エロ・グロ出版物の数が減ってより良書が一冊でも多く売り出されることは必要である。しかしエロ・グロ出版物追放に関連して一部に出版取締法のようなものを再び日本につくろうとする動きがある。刑法は猥褻罪を規定しているから猥褻な本の取締りのためには、刑法のその条項を適宜に運用すべきである。もしかりに、漠然と公安を乱すおそれがある出版物はとりしまるというような新取締法をつくったならば、政府はよろこび勇んで、政府を批判し彼らの良心を眼覚めさすすべての出版物を禁止しはじめるであろう。情報局が戦時中すべての戦争反対の言論を禁止したように。
二、日本の文化の民主化を口実として、あらゆる機会に文化の官僚統制をもくろんでいる政府は、用紙割当事務庁案を具体化しようとしている。用紙の不足とそれにからむ不正取引摘発を機会に、内閣直属の用紙割当委員会を組織した。一九四六年に用紙割当事務の内閣移管が行われたとき、政府は日本出版協会の公的存在を認めること、言論出版の自由を認めることを条件とした。ところが行政機構の変革をチャンスとして政府は従来の用紙割当委員会さえも無視して、ただ一人の長官が決定権をもつ用紙割当事務庁というものを創設しようとしている。世論は当然反対し、ひとまず現在の内閣直属の用紙割当委員会の自主的権限を認めるところまで譲歩させた。しかしここに奇妙なことがある。日本出版協会は、内閣直属の用紙割当委員会ができるとき、出版協会の文化委員会を総動員して反対運動にたった。ところが出版統制のよりすすんだ段階を示すこのたびの用紙割当事務庁創設案に関しては、文化委員会から質問のでるまで自発的説明を与えなかった。またひろく文化界によびかけて民主的出版を守るために、イニシアティブを発揮しようともしなかった。このことは日本出版協会という業者の組織が、その機構の内部に戦時中からの役員を包括していることを我々に思い起させる。日本出版協会が今後民主的出版を守るために果してどのように行動するかは、きびしい監視を必要とする。
三、ラジオの民主化が日本の民主化における重要な課題であることは、すでにのべたとおりである。日本のラジオの民主化のために、一九四六年に、民間有識人をあつめた放送委員会が組織された。しかし日本放送協会は、手段をつくして放送委員会をボイコットしようとし、一九四七年には組合を分裂させることにも成功した。そしてラジオの民主化が、意識的に停滞させられているうちに、さる六月逓信省は放送事業法案を国会に上程した。
この法案は日本のラジオの自由と健全な発展を期するために立案されたものであるとして公表された。しかし一般にこの法案が日本のラジオの民主化と自由な発展のために果して適当な性格をもっているかどうかということについてきびしい批判がおこっている。
政府の法案は日本のラジオを全面的に支配する力として放送委員会を規定している(法案第二章)。政府の考えによると放送委員会は総理庁の外局として独立してその権限を行うものとされている。放送委員は公共の利益を理解し公正な判断をもっている三十五歳以上のもののうちから五人を両院の承認をへて総理大臣がこれを任命するとされている。一般の不信と疑問はこの委員選出法に集中されている。なぜならば、我々は現在の政府が一般の信頼をかちえない人物を網羅していて政府閣僚は最近の新聞に報道されるどっさりの不正利得に関する事件および涜職事件に関係のない者はいないほどの有様である。現閣僚はスキャンダルにつつまれている。当分の間日本の人民は、清廉潔白な内閣をもつことは困難であろうと予測している。日本の独占資本がより強力な独占資本の庇護のもとに自身の存在を維持しようとしているとき、その利益を代表する政権が、真に民主的であり得ないことは明瞭である。すべての悪質な大衆課税を通過させた両院が承認する五人の放送委員が、真に公共の利益のためにたたかい、言論の自由のために奮闘する人物であろうということは、こんにちの常識において最もあり得ない仮定の一つである。
放送委員会がそのように期待できない五人の少数委員によって構成され、その委員会が直接総理庁の外局であるとき、自由なラジオの健全な発展は望む方がむしろ不自然ではなかろうか。日本のラジオはこの少数委員会のもつ非常に大きな権限と電波庁との統制をうけることになる。一般の人々が政府案をラジオの官僚統制案とみていることはさけがたい必然である。政府案第十二条は、この五人の委員が「任命後最高裁判所長の面前に於て正規の宣誓書に署名してからでなければその職務を行ってはならない」としている。正規の宣誓書の内容は一般に知らされていない。五人の委員はなにを誓わせられるのだろう。これまで日本の民衆はさまざまの奇妙独善的な人権蹂躙的な誓いをたてさせられてきた。こんにち民衆が自分の未来のためにもっている誓いはただ一つしかない。それは欺瞞のない日本の民主化と自主自立の民族生活をもつことである。新しい五人の放送委員はあらためてそのような誓いをするわけなのだろうか。
なお放送委員会はその職責をはたすために商業、工業、金融、労働、農業、教育、地方自治などの団体代表の意見を徴するようにつとめなければならないとされている。この諸団体のなかに民主的な文化団体があげられていないのはなぜだろうか。一九四六年にはあのように日本民主化のキー・ポイントとして内外から注視された婦人の団体があげられていないのはどうしたわけであろう。日本の青年のこんにちの生活内容は日本の民主化と世界平和のために、彼らに豊富な発言の要求を感じさせている。その青年団体が放送委員会の関心からとりおとされていることは不可解である。
委員の欠格条件のなかにも民主的委員を選出する必要以上の制限を加えているとみなされるものがある。
政府の放送事業法案をめぐって加えられている批難の中心点は、ラジオの官僚統制による言論抑圧の方向である。この批難にたいして政府はむしろ弁解困難な立場にある。言論・出版の自由をおびやかす用紙割当庁法案と並行するラジオ法案がより広く民衆の声を反映する性格をもっていないことはあまりに明瞭である。政府は一方において労働法の改悪、公務員法案の改正、軽犯罪法の制定、教育の民主化をあやうくする教育委員会法案などをすすめている。これらすべては政権の買弁的性質の増大とともに一般の批判にさらされる立場におかれている。日本の人民は今日においてはじめて憲法に規定されている言論の自由と良心の自由とを行動のうえに発揮する必要にせまられている。戦争挑発と日本の軍国主義の再燃にたいして青年と婦人とは胸にいっぱいの抗議をいだいている。ラジオはその時の政府によって官僚統制され、また天降りの独裁放送を行うことを思えば、政府の放送事業法案に対する反対はきわめて強い現実的な根拠をもっている。
一九四六年に組織された現在の放送委員会は日本のラジオの民主化にたいして負わされた責任において、慎重に政府案を検討した。公聴会も開いた。そして政府の放送事業法案にたいして、より具体的にラジオ民主化の可能性をもった放送委員会法要綱を作成した。
現放送委員会の放送委員会要綱は、原則として、国民生活の各面を代表する男女三
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