oしているともいえる。
ダンスやバレーは労働組合の人々の楽しみのプログラムの中へも入ってきている。組合によっては自身の小さい舞踊団をもっている。
5 美術
日本の軍部は文学者を戦争宣伝に動員したとおり画家も戦争目的に隷属させた。ほとんどすべての有能な画家が戦争宣伝の絵をかいた。もっとも積極的であった画家として向井潤吉があげられる。世界にしられている藤田嗣治もこの奉仕からまぬがれなかった。日本の洋画家で戦争に比較的動員されなかった人たちは洋画界の大御所である梅原龍三郎や安井曾太郎および軍部にとってまだ利用価値のなかった若い画家たちばかりである。
文部省は一九四五年の十月帝国芸術院会員の名によって翌年の三月に文部省主催の展覧会復活第一回展をひらくことを声明した。学界ばかりでなく美術さえも官僚統制におかれていることに不満な美術家たちは文部省の形式的な文化行事に対して強い反対の感情を抱いた。第一回の「文展」はきわめて貧弱であった。画家たちは戦争を謳歌した彼等のブラッシで何をえがいたらよいかととまどいしていた。
美術の官僚統制に反撥する若い画家たちによって「日本美術会」が結成された(一九四六年四月)。
文部省は「文展」の組織を少し変更させて名称を「日本美術展覧会」と改め、四六年の十月に再び展覧会を開いた。この展覧会に文部省はまた老大家に対する無鑑査出品制を復活した。新進の画家たちの運動に対抗して旧勢力の保存の傾向があまり明らかであったから、日本の洋画において指導的な実力をもっている二科会、独立美術協会、新制作派、春陽会等はこの展覧会に不参加を決定した。
洋画の材料が配給制になっている。これは戦争中情報局によって考え出された悪辣な方法である。画家は軍部へ奉仕しなければ職能的存在を抹殺されて、えのぐやキャンバスの配給を受けられないようにした。配給は老大家にたっぷりあり、経済的に困難な新進に少量である。これらのことも画壇の民主化を要求させる原因となっている。
ヨーロッパ名画展覧会は新しい出発に困難を感じている洋画界に大きい刺戟となった。四七年三月、読売新聞社主催で、日本にあるヨーロッパ名画展がひらかれた。朝日新聞社が五月さらに優れた作品とロダンの彫刻数点までを加えた展覧会を行った。長年の間眠っていたような国立博物館では館長が代って、もと文相であった安倍能成が就任した。新しい館長は四七年七月に「近代日本洋画展覧会」をひらいてやや活溌な仕事に着手した。この展覧会は日本の洋画の基礎となった明治初期の油絵画家の作品から近代日本洋画の古典となった作家たちの作品をあつめたものであった。
この他しばしば催されるようになったヨーロッパ名画の複製展、中国の版画展、中国の元・宋時代の名作展などは専門家ばかりでなく、美術を愛する一般の人々に喜びをもって迎えられている。
日本画の中心的組織は「日本美術院」である。日本画壇は画商と連帯をもった強固なスター・システムでかためられている。日本画家の生活の全面が封建的であり、きびしい閥がある。日本画家は多くの場合すでに注文主のある絵を仕上げて展覧会に出す。有名な画家の作品はたちまち金持の所有として一般の眼からかくされてしまう。有名な日本画家の作品はヤミ屋の親方によっても財産の一種として買い込まれている。日本画の領域にははっきりした民主化運動が起らないほど封建的習慣がしみついている。
日本画の技法にはさまざまの芸術上の問題が含まれているけれども、それはあまり画家たちの良心を苦しめる問題ではなくなりかけている。何故ならば日本の洋画は輸出品にはならないが、日本画は比較的拙劣な作品でも「日本風」ということでいろいろの海外向け販路がひらけ始めてきたから。
日本画の一つのジャンルである「浮世絵」は昨今新たに注目されはじめた。日本の「浮世絵」は悲劇的な歴史をもっている。明治維新当時、美術を理解しない政府の方針で日本の浮世絵は紙屑のように扱われた。優れた「浮世絵」の多くがボストン・ミュージィアムに集められた理由もここにあった。日本画の価値を正当に判断して日本人に理解させたのはフェノロサであった。今日浮世絵は再び歴史的な立場に立たされている。「観光日本」を考えている人はそのつけたりとしてのように日本浮世絵を扱う傾向があらわれている。あちらこちらで浮世絵展覧会が開かれている動機はすべて美術的見地にたっているとばかりはいえない。
日本政府が高率に課した財産税の目録の中には美術品も包括されている。優れた美術品を所蔵している人々の経済は戦争によって著しく変化した。このために旧家の所蔵していた美術品は財産税をモメントとして軍需成金の変型した新興成金の所蔵に移りつつある。
6 スポーツ
日本のスポーツは、戦争中全く日常生活から抹殺されていた。一九四七年になって、やっと日本の各種スポーツは、戦前のレベルまですすんだ。特に野球は、新しい情熱をもって全国的に普及した。小学生も熱心な野球ファンになった。学生野球は、文部省の監督をはなれて、学生野球協会によって運営されることになり、全日本学生選手権制度を確立した。
職業野球は四七年度の公式リーグ戦において試合総数四七六試合という長期戦を展開した。東京後楽園は、日曜日と祭日に二万から三万の観衆を集めた。しかし収支バランス不調と実業球界の隆盛に選手の補充が十分でなく、一、二のチームを除いてはみるべきものがない。
水上競技では、日本大学学生古橋広之進が四〇〇メートル自由型で四分三八秒四の世界新記録をつくった。
陸上競技では山内リエが、走り幅とびで日本記録六メートル〇七を出して、オランダのブランカース・オーエンの女子世界記録六メートル二五に迫った。
この二人は日本のオリムピック・ホープとして現れたが、一九四七年六月ストックホルムで開かれた国際オリムピック委員会総会の決議によって、日本はドイツとともに一九四八年のオリムピック・ロンドン大会に参加を許されなかった。
スポーツ資材の不足は小さい子供から大人までを嘆かせている。子供に八〇〇円もするミットを買ってくれといわれた時の母親の苦痛は日本全国に共通である。
7 文化組織
文化的な団体として次のようなものがある。
自由法曹団、日本民主主義文化連盟、日ソ文化連絡協会、日本移動映画連盟、日本新聞協会、日本放送協会、農山漁村文化協会、婦人民主クラブ、自由懇話会、新協友の会、日本文芸家協会、日本著作家組合、日本出版協会、新日本医師連盟、綜合アメリカ研究所、中国研究所、新演劇人協会、現代日本音楽協会、教育民主化協議会、児童文化協議会、日本美術会、新俳句人連盟、新日本建築家集団、民主保育連盟、職場美術協議会、自立演劇協議会、自立楽団協議会、文化サークル協議会。
現代日本にある文化団体や学校を種類別にみると次の通りである。学術団体(六三)、芸術団体(文学三八、美術四四、音楽三一、演劇三四、映画四〇)、宗教連合団体(五)、研究調査所(一一七)、小学校(官公立二〇、五三六、私立九五)、青年学校(官公立九、六一五、私立一、二一八)、中学校(官公立六〇四、私立二〇五)、女学校(官公立九八二、私立四一四)、実業学校(官公立一、〇四四、私立三三五)、高等学校(官公立二八、私立四)、専門学校(官公立一五一、私立一八一)、大学(官公立二二、私立三六)、教員養成諸学校(高等師範七、師範五五、青年師範四六、臨時教員養成所その他三三)。教員養成諸学校において、男子卒業者一五、一一四に対し、女子卒業者が僅か八七一であることは注目される(一九四六年)。
育英事業 インフレーションによる学生生活の困難は、大半の学生に校外勤労による学費の補充をよぎなくさせている。同時に奨学資金の貸与額は飛躍的に膨張した。一九四六年度一〇、五六六人の学生が奨学金を受けた。一九四七年八月までに一三、四九五人となり、八月の調査では二八、七六一人に増大した。奨学金貸与月額は四、三一六、七七〇円にのぼっている。
8 国際文化組織
日本ペンクラブ 国際ペンクラブの日本支部として組織されたペンクラブは、一九三六年のヴェノスアイレスの会議を最後として国際的連関をたった。ドイツにおけるファシズムの擡頭に対してヨーロッパおよびアメリカの文化界には、ファシズムに反対する人民戦争の共同活動がはじまった。既に満州や中国への侵略戦争に着手していて、ドイツのナチスとの提携を考えていた日本の軍事的権力は、日本ペンクラブが反ナチスの線で国際的に結ばれることを嫌った。ヴェノスアイレスに日本代表として出かけた作家故島崎藤村は、政府のこの意志をよく理解していた。各国の反ナチス決議に対して曖昧な、儀礼的な態度を示しただけで帰国した。その後ペンクラブは特に「日本ペンクラブ」と改称した。戦争と侵略とにとって邪魔にならないものにしようとした。それでさえも戦争が進行するにつれて存在が許されなくなって解散した。
一九四七年二月に、「日本ペンクラブ」は再建した。第二次ヨーロッパ大戦後における第一回国際ペンクラブの大会が、一九四六年の夏、ストックホルムで開かれた。それに刺戟されて日本ペンクラブも活動を開始した。日本ペンクラブは、「ペン」による国際親善運動を目的とし、国際ペンクラブへ正式加入して日本支部設立を計画している。事業として、現代日本文学の海外への紹介を計画している。
けれども、現在の日本ペンクラブの性格は、各方面から疑問をもってみられている。何故なら、再建された日本ペンクラブは、国際ペンクラブの基本的精神から遠くそれていることが認められるから。国際ペンクラブは一九三四年に、ドイツ・ペンクラブがヒットラーの焚書事件に対して抗議しなかったという理由で、国際組織からドイツ・ペンクラブを除名している。一九四六年の第一回大会においては、オランダ代表が提供した「対独協力作家の追放問題」が圧倒的多数で大会決議として採択され、ドイツ・ペンクラブの国際ペンクラブへの復帰は留保された。翌年の第二回大会で、ドイツの国際ペンクラブへの参加が可決されたのは、ドイツの民主的再建のために献身するドイツ文学者の実力が認められたからであろう。
日本ペンクラブは除名されるよりも早く、自分から国際ペンクラブを逃げたということで、対独協力の責任をまぬがれてよいものだろうか。侵略戦争協力の責任によって最近パージにかかった林房雄、その他の作家を組織員としていることが、国際ペンクラブへの正式加入にふさわしい条件であろうか。海外へ紹介する日本の現代文学作品集の中から、戦争反対の立場を守りつづけた民主主義作家の作品をオミットして、戦争協力作家の作品を網羅していることが、正当な文化の国際連携を可能とし、海外の読者の知性を尊重する態度であろうか。ましてオミットされた作家たちが今日の日本文学の代表的作品をかいている場合。日本の文化界の世論は、日本ペンクラブでの奇妙なセクショナリズムについて注目を向けている。
ユネスコ 日本においてユネスコに対する関心がよびさまされたのは、一九四六年十一月のパリ会議以後である。国際ペンクラブの第二回大会はその決議の一つとして各国のペンクラブがユネスコに対して積極的に協力することを決議した。日本においても日本ペンクラブが、ユネスコに対する関心をよびさましたのであるが、ペンクラブが日本において一種独特な反民主的傾向をもっているように、ユネスコ運動もきわめて官製品の臭気をもって出発した。
一九四七年メキシコにひらかれた第二回総会に対して、日本からもとり急いでメッセージを送るためという理由で、日本におけるユネスコ運動者たちは、一部学生を動員して日比谷で第一回のユネスコ大会を開いた。このニュースは、事後承諾の形で新聞にあらわれた。そして一般の人々を驚かした。日本の平和と自由と独立とを愛するすべての人は、ユネスコ運動者が、侵略戦争の積極的な準備者の一人として活躍してい
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