黷トいる。四八年の始めに期待されているのは久保栄作「火山灰地」の公演である。「火山灰地」は新劇の上演目録中最も優れた脚本の一つである。この脚本は戦争の長い期間上演されなかった。
日本の演劇に喜劇が発達していないことは注目されなければならない。歌舞伎に喜劇がない。新派にも新劇にも諷刺と笑いとが欠けている。日本の封建性を語るとき、日本文化の中に「笑い」はどのように存在しているかということは研究されなくてはならない。
芸術祭 日本の政府は、本質的な意味ではファシズムと反民主精神とを温存していながら、外面的には日本を文化国家として内外に信じさせようとして努力している。日本の民主化を第一歩においてゆがめた権力が、熱心に美術展覧会を開こうとしたことや、年々「芸術祭」というものを行ってその実行を各芸能団体に要求していることもこのあらわれである。一九四七年度の芸術祭の内容は、極く少数を除いてお義理的な空虚なものであった。一般人は政府仕立の芸術祭プログラムよりも、自分の財布と自分たちが観ようとするものの実質を検査してからでなければ、切符を買わなくなってきている。森戸前文相は国立劇場の設立計画を持って各方面から委員を集めたが、準備会が組織されただけで内閣は更迭した。「文部大臣賞」が芸術祭に参加した団体や個人に与えられた。
日映演 という名をもって映画、演劇人の労働組合が組織されたことは、日本の将来の演劇、映画の発展のために、期待すべきこととされている。
日映演を中心とする労映協議会は国鉄労組との協力によって新しい作品を作ろうとしており、電産労組との協力で「われら電気労働者」などを製作しようとしている。
自立劇団 一九四六年以後、各労働組合や職場などで盛んに演劇運動が起った。農村の青年男女も芝居に熱中した。極く初歩的であったこの要求が、だんだん組織され技術的にも高まって、今日では自立音楽団と匹敵するほど自立劇団が生れている。自立劇団は多く新劇の系統に立ち、日映演の組合員に指導されている。自立劇団は、将来において今日の新劇がゆきづまっている一種のマンネリズムを打破して、民主的な演劇運動の母体となる可能性を示している。現在日本の人民は、あらゆる種類の大衆課税に苦しんでいる。書籍に課せられている税、スポーツ用具に課せられている税、特に観覧税は入場税の一〇〇パーセントをとられる。自立劇団の活動はこの困難を救うためにも要求されている。
組合や職場の演劇に対して経営者は、その費用を出すことで経営者側の好む芝居を上演する劇団にしようとしている。この計画はあまり成功しない。何故なら、観客がとりもなおさず働く人々であるから、自然働く人々の生活的な判断力でその芝居を批判するから。
3 音楽
戦争中正常な意味での音楽は日本の人民の生活から奪われた。演奏会曲目にはドイツ音楽だけが許された。レコードでさえアメリカやイギリスの音楽は禁じられ、子供の唱歌は兵士の歌う軍歌と同じものにされた。演奏会は常に何かの形で、軍関係に義捐《ぎえん》の催しでなければならなかった。オーケストラ部員は白と黒との服装を捨ててカーキ色の国民服というものを着た。すべての音楽家は広い戦線のあちこちに慰安隊として動員された。三浦環のような歌手さえ満州へ行かなければならなかった。小学校の音楽教育は急にドレミファからハニホヘトに変えられた。そして軍事的な目的で音感教育がやかましくいわれた。しかもこの子供達が歌う歌は軍歌しかなかった。
このようなおそろしい状態からやっと日本で音楽がよみがえろうとしている。楽器の不足は各家庭や学校の無邪気な音楽愛好心を悲しませている。音楽会場の不足はいろいろの音楽的催しに不便を与えている。軍歌に変って流行歌があらわれ、それは映画の主題歌から最近ではアメリカ流行のブギウギの真似までがある。しかし健全な家庭で親も子供も歌ってよろこぶようなホーム・ソングは生れていない。その場所をうずめているのはフォスターなどの古典歌謡である。
ラジオは古典音楽鑑賞の他に歌謡指導をしたり、職場の音楽紹介を行ったりしているが、日本の作曲の水準が低いために新しいいい音楽の発生は困難である。
戦争中洋楽の日本化が求められて作曲家たちはそのために苦心した。日本の宮廷音楽の主なものであった雅楽のメロディーを応用したり、日本の民謡のテムポを生かそうと試みられたが成功しなかった。雅楽は元来が蒙古のラマの舞踊音楽から転化してきた原始的なものであるし、日本民謡のメロディーは今日の日本人の感覚のダイナミックな要素を満足させない。官立の音楽学校の傾向は長年ドイツ音楽の系統に属していた。フランス音楽は概して官立の音楽教育から閉め出されていた。一九四六年に音楽学校長は小宮豊隆に変った。日本の近代古典として有名な小説家夏目漱石の門下であって多方面な趣味と教養をもっているこの新校長は、音楽教育の革新を決心している。彼は政府の勲章を貰って音楽を忘れているような古い教授をやめさせた。そのかわりに本当に音楽家であるヴァイオリニスト巖本真理のような若々しい才能者を教師として迎えた。音楽学校は各国の音楽に向って関心を示し始めた。この反面に今日の音楽学生は深刻な経済困難にさらされている。多くの学生はキャバレーやダンス・ホールで働いている。そこで彼等は割合によく金を儲けることが出来る。しかし音楽学生の真面目な研究心は損われつつある。音楽教育の民主化の問題はこのような矛盾の解決をも課題としている。
純音楽 日本の指導的なオーケストラは二〇年の歴史を持っている日本交響楽団がある。このオーケストラは一二〇人の楽団員をもち三人の日本人指揮者によって指揮され、毎週二回のラジオ放送と月二回の定期演奏会を行っている。この日響が行ったブラームスの五〇年記念演奏会は注目すべき演奏会であった。
一九四七年に東宝オーケストラが組織された。このオーケストラは劇場づきオーケストラの性格をもっているために、しばしばオペラやバレーに出演している。第一期の定期演奏会には、ベートーヴェンの作品を作品番号順に連続演奏をした。その他に四七年度の主な演奏会としてジョージ・ガーシュイン十年記念演奏会を行った。
東京フィルハーモニー・オーケストラはアーニー・パイル交響楽団となった。アーニー・パイル交響楽団はアメリカの許可によって第一回公開演奏会を行った。
日本人は長い間オペラを理解しなかった。自分たちで創作したオペラをもっていない。四七年度に入ってオペラとオペレッタへの関心がたかまった。いままで日本に唯一のオペラ団であった藤原義江の団体が「ラ・ボエーム」と「タンホイザー」などを上演したほかソプラノの歌手長門美保歌劇研究所が新しく組織されて活動を始めた。第一回公演の「ミカド」は始めて日本で上演され、外国舞台にない魅力で好評を博した。
軽音楽 ダンス・ホール、キャバレー、ショウ、アトラクションなどとしての軽音楽は大流行で、無数の小軽音楽団体が出来ている。日本の軽音楽は主としてアメリカの軽音楽に追随している。この追随は一面的で日本の洋楽の低俗な感覚で受け入れ易い面だけを誇張している。
日本音楽 琴、三味線などを中心とする伝統的な日本音楽はその復活の努力に二つの面を表している。一方はどこまでも古典的なままに日本音楽の伝統を生かそうとする努力である。他の一方は今日の日本の社会生活の現実感情に近づいたリズムやメロディーで新しい日本音楽を創造してゆこうとする努力である。琴においてこの努力をしつつある人々は、洋楽の音階を琴の絃にあてはめている。琴の弾音を利用してピアノまたはギターの効果を求め、一方でハープのやさしいひびきを出そうとしている。このような努力をしている人々によって試みられている新曲やエチュードは小規模なものではあるが今日の日本人に親しい感覚を与える。
三味線のオーケストラが試みられている。三本の絃をはった小さい軽い楽器の伝統的な大きさを自由にしてセロのような低音のハーモニーを見出そうとしている。新しい琴と三味線と横笛との演奏は、単調で憂鬱な昔の「三曲合奏」に全く新しい感情をつぎこんでいる。
能楽 日本の能楽は音楽とはいえない。一種の朗読法である。能楽は楽器を伴った朗読につれてそれぞれの性格を現す「能の面」(マスク)をつけた二人三人の登場人物が、動作のきわめて圧縮されたシムボリックな舞を舞う。日本の伝統的芸術の一つとして「茶道」と「華道」「歌舞伎」などとともに外国によく知られている。しかしこの封建時代の貴族と武士の娯楽であった能は今日の日本人の大多数の生活から全くかけはなれている。能の家元のきびしい封建的な権力争い、能役者の封建的養成法などは能の古典的存在さえ危くしている。この封建的芸術の領域では婦人の能役者というものは認められていない。
日本には音楽の領域に入れられていながら、実は朗読法であり、物語りの一つの方法であるようなものがいくつかある。浄瑠璃がその一つである。これは人形芝居とともにきかれる。浪花節がそれである。浪花節はもっとも教養の低い日本の階層の慰みとして今日も多くきかれている、三味線の伴奏を伴った節つきの物語法である。能はそのテーマの多くを仏教思想によっている。浪花節のテーマは、封建的な武士が絶対権力を振った社会で一種の反抗精神を示していた博徒の世界を多く取り扱っている。このセンチメンタルであって同時に封建的な物語法が日本の民衆の趣味の中に残されている間は、日本民主化の現実が何処にか封建の影をもっていることを証拠だてる。
外国人は外国の所謂「伝統的」音楽、舞踊、絵画などを理解しようとする場合、自身のエキゾチシズムを満足させる習慣がある。あらゆる国々の文化人の間に今日まで残っているこのような習慣は、世界文化に対する相互的な高さよりもむしろその低さをあらわす場合が多い。日本の伝統的音楽などに対しても、日本人が自分たちの歴史の発展の過程で、自分たちの民族文化をどのように健康に発展させようとしているかという方向から注目されなければならない。
新しい音楽の源泉は今日一般人民の生活の中から少しずつ生れはじめた。各労働組合の文化部はブラス・バンドや合唱隊、軽音楽団などを持ちはじめた。学校のコーラス団も発達しはじめた。ベートーヴェンの第九シムフォニーのコーラスには専門学校の男女合唱団がしばしば参加する。いろいろな地域の自主的な文化団体でも音楽のグループは活溌である。一九四七年のメーデーに日本の労働者六〇万人は彼等の新しいメーデーの歌を持った。歌詞は国鉄従業員の組織している「国鉄詩人」の共同作品であった。作曲は民主主義文化連盟が募集して当選した一人のつつましい家庭の主婦の作曲であった。この歌は明るさと親しみ深さと元気とで専門家の間にも好評である。こういう自主的な音楽運動は主として「日本現代音楽協会」が指導している。保守的な音楽団体として「日本音楽連盟」があり、この連盟は八つの職能組合を組織している。
4 舞踊
伝統的な日本舞踊は物質的困難から停滞している。日本舞踊はその基礎の大部分を日本の花柳界においていた。伝統的な花柳界の崩壊とそれにつながる封建的な上層商人の経済事情が変ったことは日本舞踊の決定的打撃となった。古典的な舞踊の流派は藤間《フジマ》、西川《ニシカワ》、井上《イノウエ》、若柳《ワカヤギ》、花柳《ハナヤギ》等それぞれのリサイタルをひらいている。形式の固定した日本舞踊により広いヒューマニスティックな情感を加えて新しい発展を試みている人に西崎緑がある。この婦人は教養の高い上流人で、彼女のより広い趣味から新しい日本舞踊が研究されている。
バレー は戦争からの解放を喜ぶ若い日本人の感情から急速に流行している。解放の感情を肉体で表現しようとする素朴な要求によってバレーは人気がある。同時にこれまで真面目な音楽や芝居にふれる機会のない生活をしてきた今日のヤミ屋の金持たちは、彼等の芸術への興味をバレーに見
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