キときは、彼らの生活経験がその手法を役に立たないものと思わせるときであろう。他の一方には、いわゆる「詩的」な言葉をえらんでそれをならべる努力とは別のところに、生きた詩精神を認めようとする詩人たちがある。その人々はゲーテがドイツ語を単純に美しく生かしたように、プーシュキンが日常のロシヤ語を芸術の言葉として生かしたように、日常的な日本の言葉で現在のすべての日本人が生きている破壊と建設とを歌い、民主的社会への抑えることの出来ない情熱を表現しようとしている。民主的な詩人たちは、数において多いし生活力にも富んでいて題材も豊富である。長い製作の経験をもつ民主的詩人壺井繁治、中国における新しい人民の建設事業にふれてユニークな題材を歌っている坂井徳三その他の人々がある。これらの詩人たちは、自身の新しい詩をつくってゆくかたわら、新日本文学会の詩の部門の担当者として日本の人民が彼等自身の詩を書くようになるために熱心な指導をしている。国鉄の職場に詩人グループがあって「国鉄詩人」とよばれている。彼等は職場で協力しているとおり、詩作においても共同製作を行っている。一九四七年のメーデーに歌われた新しいメーデー歌は、「国鉄詩人」によって作詩された。その詩に明るいメロディアスな作曲をつけたのは、詩人坂井徳三の妻である一人の家庭婦人――坂井照子であった。国鉄詩人のほかに多くの職場に詩愛好家のグループができている。
最近新日本文学会から民主的詩人の作品集が出版されようとしている。
評論 厳密にいうと日本では、一九三三年以来文学に関する理論、評論活動は中断されていたといえる。侵略戦争が拡大するにつれて日本の天皇制のファシズムは、思想と言論の自由を奪い、やがては人民の理性そのものさえも否定した。社会の現実を正視することを許さない権力のもとでは、その社会がするどい階級対立を含みつつ戦争にかりたてられている現実から生れ出る文芸作品の存在が許されなかった。従って文学作品を社会とのなまなましい関係でみる民主的な文学理論が展開されず、民主的評論が存在させられなかったのは当然である。一九三三年以来ジャーナリズムの上に活動する余地をのこされていた日本の文学評論は、最低のヒューマニティーを守ろうとする努力をつづけながらも実際においては、世界の歴史に対して目をつぶり、現実から遊離し、権力への抗議をさけて、いわゆる純芸術的評論におちいった。現代の世界文学において、評論の基準とされている客観的評価はかげをひそめ、一九二〇年代以前の主観的随筆的評論が横行した。
一九四六年は、このようにして殺されていた日本の文学評論のよみがえりの時期であった。日本の進歩的文学理論の発展に対して、価値ある貢献をしつづけた蔵原惟人をはじめ、長い沈黙の間に活動の日を待っていた岩上順一その他の若い評論家が、こぞって日本の民主的文学の本質と方向についての検討をはじめた。
一九四七年には、蔵原惟人の「文化革命の基本的任務」その他これらの新しい民主的文学の評論家たちの活動がそれぞれの著作集としてまとめられた。これらの時期には小説その他の創作よりもむしろ評論活動の方が活溌であるように見受けられた。しかしその実質について研究すると、ここにも戦争の与えた深い傷がみられた。第一、今日の若い民主的評論家たちは、彼らの青春時代をきりきざんだ日本のファシズムの暴力に対して忘れられない恨みを抱いている。一人一人の運命が、軍部からの葉書一本で左右されたことに対して感じた憤りを忘れていない。日本の人民とその文化が、そのようにみじめであったことについて、今日は猛烈に近代的個性の確立と自由とを主張する精神をもっている。このやきつくような欲望に対して、これらの若い評論家たちは必ずしも完備した思想的設備をもっているとはいえない。ここに戦争の傷があらわれている。彼らのある人は、きわめて客観的な日本の民主化の歴史的本質を、きわめて主観的な自身のエレジーをモティーフとして理解し、それを固執している。また、長い年月の間日本の民主的思想とその運動の実際からきりはなされ、一九三三年以前の民主的文学評論の正統的な文献さえもみることの出来なかった人々は、今日でも彼等が自覚するよりも遙かに多く官製の逆宣伝文書に影響されている。これらの人々は、自我の解放を熱望しつつ、半封建に圧せられていた自我を解放するためには必然である民主的権威を認めることにさえ、猜疑を抱いている。民主的、人民的権威がとりも直さず彼自身の人間的尊厳に通ずるものであるにかかわらず。最悪の場合においては、人権と文化を抑圧しつづけた治安維持法への抗議を忘れて、その抑圧のために生じた人民的組織――たとえば日本共産党やプロレタリア文化・文学団体――の活動に見られた不十分さだけを、必死に追究した人々もある。
一九四七年秋以後、民主的評論家の陣営内の混乱は、一応整理された。若い評論家たちは、多面的な彼等の活動を通じて急速に、確実に成長しつつある。
一九四七年に入ってから、支配権力の民主化サボタージュにつれて、文学評論の面にも反民主的活動家が現れはじめた。今日彼等は表面上はファシスト文化理論は語らない。しかし日本の民主的文学運動とその創造活動に対して、勤労階級とインテリゲンチャとの分離を宿命的なものに描いてみせる。民主主義の本質を反社会的個人主義にすりかえて示す。民主的作家の善意を嘲弄的に批評したりすることで、日本の人民の民主化の希望とその可能性をあやぶませる目的を達している。一段と素朴な形で民主的文学を無価値なもののように思わせようと努力している人々に、林房雄、石川達三、その他の作家の自己擁護の放談がある。
青野季吉は、一九二〇年代の末には、日本の進歩的な文学評論の活動家の一人であった。ところが当時の野蛮な力に屈服してから、今日になっても彼の民主的活力を回復しない。最近の彼の文学に関する発言のすべてが、今日の民主的文学に決して触れないのは注目すべきことである。
民主的文学の陣営に属さぬ人々が、「かえりみて他をいう」という態度で、主として自然主義時代の作家や日本の明日にとっては、昨日の作家である人々についてばかり多く語りはじめていることも注目される。彼らの健忘症はおどろくべきものである。一九三三年に日本の民主的文学運動から、保身のために自分たちをきりはなし、対立者として自分を表明した作家、評論家がその後みじかい数年の間にどんなめにあったかを忘れたらしい。彼らにとってもその人間的存在と文学との守りてであり、ファシズムに対する抗議者であった民主的文学者に弾圧を集中させることで、彼らの得た利益は一つもなかった。彼らの市民的自由も思想も文学も無抵抗に殺戮されたばかりであった。
勤労者ばかりの文学グループに、理論・評論のグループは少い。今日はまだ勤労階級の文化は、評論活動をたやすく行うほど文学的な専門知識を蓄積していない。しかし近い将来に必ず生活的、文学的な民主的評論家が勤労者の間から生れるだろう。彼らは腐敗したジャーナリズム文学に毒されながらも、その一面には生活の現実に基礎をおいた強い判断力をもっている。今日これらの人々は、勤労人民として自然な自分たちの文学に対する判断と、いわゆる専門批評家の、時にはむしろ混乱した饒舌との間で当惑している。もっとも代表的な民主的文学理論雑誌は蔵原惟人編輯の『文学前衛』である。
戯曲 今日日本の新しい演劇運動は、もっとも専門的な劇団から自立劇団に至るまで、新作戯曲の不足に悩んでいる。戯曲は小説よりも少くしか書かれていない。一九四五年十二月から四七年春まで職業劇団によって上演された戯曲の多くは翻訳劇であった。こんにち一般に日本人の生活を描いた戯曲が上演されることを熱望しているのに、戯曲がそれほど不足しているのは何故であろうか。歌舞伎や新派は自分たちの座つき作者をもっている。戯曲家として大舞台の上演にふさわしい作品を書く人は、従来少なかった。最近死去した真山青果のほか、中村吉蔵、参議院議員となった山本有三などのほかには、若い戯曲家は、主として小劇場の舞台のために書いていた。小劇場は殆ど焼失した。同時にこれらの戯曲家の生活をこめて社会事情は急に変化した。にわかに複雑になった社会現象は、これらの戯曲家の創作を困難にしている。雰囲気をおもんじ、比較的テーマの社会性の弱い戯曲を書いていた人々は、現在の荒っぽい現実を彼らの小規模でみがきのかかった過去の技術の中にもりきれずにいるといえる。
新劇の流れの中に成長した戯曲家は、まだ彼らの過去の業績をしのぐような作品を送り出していない。意力的な構成力をもっている久保栄の「火山灰地」は新劇レパートリー中の古典であるが、一九四七年に上演された同じ作家の「林檎園日記」は、「火山灰地」に及ばないものとしてみられた。
東京自立劇団協議会に組織されている東京附近の三五劇団は、上演創作劇四三の中、二〇ちかく勤労者自身の手になる戯曲を上演している。これらの戯曲は、過去の新劇や軽演劇の影響ももっており、一面に保守的趣味さえ示している。しかし日本製靴労働組合の服部重信の「蒼い底」、「労働者の子」、日立亀有の堀田清美「運転工の息子」、大日本印刷鈴木正男「落日」などは、注目すべき新鮮さをもっていると批評されている。
短歌・俳句 ヨーロッパ文学のジャンルにはない短詩の形式としての日本の短歌および俳句は、伝統的な形式の骨格を保ちながらもその表現の手法やテーマにおいて、より生活的に社会的に変化しつつある。
短歌の古い指導者たちは、ギルド的な自分の流派をしたがえて戦争中軍国主義の短歌をつくった。
新しい短歌グループは、『人民短歌』を機関誌として、短歌の三十一字の形式の中に、今日の市民生活のさまざまの場面と情感をうつし出し始めている。反戦的な短歌が少くない。これは日本の一般人の文学的形式として親しまれてきた短歌のこころが、さまざまの階層の人々の軍服の胸の下に隠されて前線に運ばれ、そこで苦しんだ刻々の心を表現しているからである。兵士たちは、彼等の日記その他貴重な人間記録を焼き捨てさせられた。この事実が小説やルポルタージュに反戦文学の少いことの一つの理由である。彼等はマテリアルも失っている。しかし、三十一字で構成される短歌は、作者によって暗記され易かった。そして、そのいくつかの作品がいま印刷されている。
俳句は、十七字を詩形としている。俳句が伝統とした文学精神は、現実からの逃避であった。しかし今日だれが現実から逃げることができよう。よしんば彼のもつ文学表現の形式が十七字であろうと、二〇〇〇字であろうと――。俳句にも生活派の俳句があらわれた。生活的な俳句の指導者は、生活的な短歌の指導者と同じに戦争中はきびしく監視された。このように、二つの伝統的な文学のジャンルにも新しい風が吹きはじめている。
反戦的な文学 一九四七年の後半になって、やっと少しずつ日本の侵略戦争に対する批判を表現した文学作品があらわれはじめた。
梅崎春生の小説「日の果て」はいくらか通俗小説の傾向があるが、脱走兵のあわれな最後を克明に描いている。宮内寒彌の小説「艦隊葬送曲」、「憂うつなる水兵」等は、報道班員丹羽文雄の「海戦」には描かれなかった水兵の運命を描いた。野間宏の「二九号」は、軍事刑務所の生活を描いた。民主主義文学運動に参加している文学グループの中から新しく小説を書き出している若い人々の中から、短篇であるが「古川一等兵の死」のような兵士の悲惨な運命を描いた作品もあらわれた。
東大の学生が編輯した東大戦歿学生の書簡集『はるかなる山河に』一巻は、文学作品ではないが、深い感銘を読者に与える。日本の軍部は前線から故郷に送る兵士の手紙をすべて検閲した。軍機の秘密に属さないことでも、前線の生活事情と強いられた環境の中での心もちとを率直にあらわした手紙は許可しなかった。明日は戦死しなければならない前夜に、許されて手紙を書くときでさえも、日本の兵士たちは、「滅私奉公します」と書いた。あわれなこ
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