ノねじむけようとした。その努力がかえって二つの組合を発展的に結合させた。
この興味ある事実が語っているように、政府と文部省とは表面日本教育の民主化を試みているような振りをしながら、事実上何とかして、封建的ではないまでも、余り民主的でない範囲に人民を保つ程度の教育を行おうと努力しつづけている。この事実は一九四六年一月の天皇の放送した「元旦詔書」につづいて文学博士和辻哲郎が行った「哲学的天皇制護持」の講話、安倍能成の二月十一日に行った「建国神話擁護」、東大総長南原繁の行った「大学生の社会活動抑制」の演説、文部省教学課長会議における当時の学校教育局長田中耕太郎の「教育勅語護持の言明」、さらに三月上旬新憲法草案の公表に乗じた「新教育勅語」発布奏請の計画など一歩一歩の足どりは組織的に教育民主化の発展をはばんでいる。アメリカ教育使節団がきた時文部省は用心深いもてなしの計画をたてていて、儀礼的な歓待に時間をつぶさせて極力日本教育の現状から眼をそらさせようとした。真の意味で民主的な文化人や団体ではこの使節団に会う機会をもたなかった。「全教組」を中心として民主的勢力は協力して八項目にわたる「日本教育の現状」という報告書を手交し、建設的な意見を伝えた。
吉田内閣の時代に入って全政策が反民主的方向をとるにつれ、前内閣のときその保守性で着目された田中耕太郎が文相に立身した。田中耕太郎は当時の方針を教育に生かして、「教育権」の独立を主張した。教育の政治からの独立という主張において、彼の政治的立場を明瞭にした。同時に田中文相は宗教教育を主張した。政府は議会で教育再建に関する決議六項目を発表したがそれは具体的に教育民主化を推進するようなものではなかった。四七年八月十五日に進歩党が提案した宗教情操教育に関する決議案は、田中文相の宗教護持説をただ卑俗化したものにすぎず一般の不評を買った。吉田内閣は自分の文部省の手で文教改革の骨組を決めてしまうことに努力した。きわめて保守的な教育刷新委員会が出来たのもこの結果であるし、人文科学振興委員会が設けられたのもこの意味にほかならない。
公民館運動も全国に起された。外見は全国的に文化センターをこしらえる運動のように見うけられた公民館の「設置運営のしおり」をみると、この本質が民主的とはいえない文化統制を意図したことは明瞭であった。公民館が協力者として連絡をも
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