w者の復帰が行われた。反動的な学内の諸習慣、制度について学生は自主的な改善を求め研究の自由を確立しはじめた。
天皇および皇族、華族の憲法上における地位の変化は学習院および女子学習院の貴族的な運営法に根本的な変革を起した。両学習院は宮内省の管理を離れた。財団法人として、新設の大学部を併せ六・三・三・四の新学制で出発した。四七年四月、一〇一年の伝統を捨てて広く一般に開放された。しかし現実に新しい学習院へ入学する子供たちは決して「一般人」の子供ではない。その富が戦争中のどういう非人道的な行為によって溜められたにせよ、新しい富豪として現れている階級の子供たちであり、宮様と同じ学校[#「宮様と同じ学校」に傍点]というところに虚栄心が満足させられている。
学校の民主化に関する学校争議は一九四六年から七年にかけて全国のあちらこちらで起った。女学校の小さい女生徒も学内の民主化を要求する彼女たちの若い声で教師と父兄を驚かせた。
日本の教育者の待遇は小学校教師から大学教授に至るまできわめて薄給である。教育者の給料における男女差別も大きい。もっとも生活の苦しい小学校の教師が積極的に動いて一九四五年につくられた民主的な全日本教員組合と時を同じくして、文部省ならびに日本教育会の方針に従う保守的な日本教育者組合が組織された。この二つの組合は約一年の間その進歩性と保守性との間に種々の摩擦を経たが、一九四七年はじめ頃から合同への機運が動き、四月に二つの組合と、大学・高等専門学校教員組合の合同が実現されることになった。五十万人の全国教職員の希望していた教員組合の単一化が行われ、日本教職員組合が誕生した。元来、民主的な全教組の活動を妨げるために文部省と日本教育会が組織した日本教育者組合が、全教組と合同してさらにより大きい単一の教職員組合を持つに至った動機はきわめて興味がある。文部省によって組織されている教育刷新委員会が四七年四月、議会に教員組合の団体協約を破棄しようとする建議を行ったことに対し、その点については利害を一にする二つの組合は文部省に対して共同声明を行った。つづいて日本教育会の二度目の組織変えに対し、また教育刷新委員会のもくろんでいる保守的な教育者組織に対する反対のために二つの組合は共同声明を行った。政府と文部省とは手づくりの組合の基礎の上に立って全日本の教育者と教育の方針とを再び保守
前へ
次へ
全83ページ中29ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング