チてますます悪化した。各社は二月から五月までの間に二十四回タブロイド版の新聞を発行した。
新聞の定価は次のように高くなった。
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四六年八月(一ヵ月)八円
四七年五月(一ヵ月)十二円五十銭
四七年十月(一ヵ月)二十円
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ヤミ新聞 新聞用紙の正当な割当配給を受けないで発行されているヤミ新聞は大体八七三紙に及んでいる。各紙とも一部一円または二円で売られ、最大発行部数が週五、〇〇〇部位である。ヤミ新聞は多く強制的な広告集めや寄附強要などによって経営され反民主的な政争にきたない役割をもっている。一九四七年八月十一日民間情報教育局新聞課長インボデン少佐の名によって絶滅の方向が示された。
B 通信[#「B 通信」はゴシック体]
新聞を軍事的官報とした旧支配者は日本にただ一つ官製の通信社として同盟通信社の存在を許していた。同盟通信社はそういう本質からきわめて積極的に戦争協力をせざるをえなかった。一九四五年八月以後同盟通信社の再編成が試みられ、同盟通信の業務を二分して共同通信と時事通信の二つの社に分れた。共同通信社は東京および地方の有力紙十四社が設立に参加した。この社は同盟通信社の純通信事務を受け継いだ。時事通信社は同盟通信社時代の全職員を株主として合作社の組織をもった。時事通信社は新聞社以外の個人・団体を目標とする日刊新聞社である。この再編成は一九四五年十一月に行われた。
一年のちには社会通信社、労農通信社その他合計十二の通信社がつくられた。
新聞の活動が第三期に入ってからは、各種通信社の自然淘汰が見られ始めた。
C ラジオ[#「C ラジオ」はゴシック体]
一九四五年三月日本全国のラジオ聴取者は七、四七三、六八八戸あった。四七年七月には五、八六一、六三四戸(内無料九五、〇九六)に減少している。戦災が彼らの家とともに受信機を焼いた。ラジオ機械の生産能率はまだ非常に低い。二百万台の受信機の生産と二百万台の修理をしなければ七百万人の聴取者の要求を満しえない。ラジオ受信機の価格は現在一台戦前の四十倍になっている。
聴取料は四六年四月の二円五〇銭が四六年九月には五円、四七年九月には十七円五〇銭と上っている。
日本の放送事業は財団法人日本放送協会の独占的事業である。半官半民の形態はとっ
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