黷トいた治安維持法というものが廃止されたことを、どんなに心から喜んだかという感動すべき印象を与えられた。日本人は、一九四六年の始め頃には、本当に言論と出版と思想の自由が日本にもたらされたものと信じた。そのナイーヴな歓喜の記念としてこの一巻のフィルムは日本人に永く記念されるであろう。亀井文夫は一九四六年「日本の悲劇」を製作した。これは一つの新しい方法で戦争中のニュース映画をモンタージュしたものであった。日本の軍部が侵略戦争を強行し、拡大して行った諸段階に応じて日本の全人民がどのように戦争にかりたてられ、生活の安定を失い、破滅にのぞんだかということを強く訴える作品であった。しかし興業者たちはそのフィルムを買うことを拒絶した。口実は、観客に受けないという理由であった。しかし興業者にこういう拒絶を可能にさせる一つの圧力があったわけで、この圧力こそ今日でもまだ日本人民に戦争の犯罪性を自覚させまいとしている。四十七年度の日本映画の傑作は次の諸作品であった。東宝「今ひとたびの」(製作者五所平之助)、「四つの恋の物語」(製作者衣笠貞之助)、「戦争と平和」(製作者亀井文夫)、「安城家の舞踏会」(製作者吉村公三郎)、「わが青春に悔なし」(製作者黒沢明)、「女優」(製作者衣笠貞之助)その他、「素晴らしき日曜日」、「花咲く家族」、「長屋紳士録」等も明るいユーモアとペーソスとをもって愛された。最近東宝の経営者は、近代的経営者としての貫禄をとわれる問題に面している。それは「焔の男」の撮影中止問題である。「焔の男」は国鉄労働者の作業現場を中心とする勤労生活映画であり、東宝企画審議会(会社側・芸術家・労組各代表から成る)の提案による製作であった。東宝の経営者は、これもまた商業的価値がないことを理由に製作中止した。国鉄は日本全国に五十四万人の組合員をもっている。これは東宝にとって少い観客であるといえるであろうか。
 松竹と大映両社はよい作品を製作するよりもしばしば悪趣味の作品を送り出した。アメリカ映画の貧弱な真似をすることを止めない限り日本映画の芸術的な独自性は育てられないという事実をこれらの社も自覚しはじめた。
 洋画 輸入公開されている外国映画のトップはアメリカ映画である。四六年十月から四七年十月までに四五本の作品が公開された。東京に「スバル座」を始めとして幾つかのアメリカ映画館がつくられた。

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