て語っているのだが、よく読んでみれば、モーロアは歴史の厳粛な推移の契機には何一つ迫っていない。フランスの敗れた本質的な理由としてあげている幾つかの事情も、つまりは結果として現れた現象を並べているにすぎず、何故それらのことは起ったのかという大切な点について彼の記述は全く史的な洞察を欠いている。一九三五年の早春のパリ事件の本質が、フランスの人民の国を愛す心と別に五年後にフランスを敗れさせるに到った深刻な事情について、モーロアの多弁は些かも説明し得ない。終章のモラルも、ジェスチュアが目立って甘たるい。
例えば、このひろく読まれた一冊の本をめぐって、今日の読者としての作家や評論家はどんな在りようを反映したであろうか。あれが一種のサロンの本であることを率直に評した人は極めて僅であったと思う。幾人かのひとは、著者がフランスの危急についてそれだけ知っていたのに、何の積極な働きも試みなかったこと、そして今になってそれを喋々する態度を批判している。その批評は幾人かの人々が知識人として今日の社会に対している良心のあらわれであるのだけれど、その半面では、モーロアの本質がつまりダラディエやレイノーとそう大して違ったものでもないこと、それだからこそ現象の説明は皮相な政界内幕の域を脱し得ていないこと、従って、当時のレイノーにその社会的な矛盾紛糾を解く方策が見出せなかった瞬間にはモーロアも一箇の派手な話の運搬人としての存在でしかあり得なかったのだという真相が十分それらの評者に把握されていないことが語られていると思う。
他の何人かの人々は、モーロアの著作に、事実の断片が盛られているけれども、歴史の真相はとらえられていないということに就てまるで触れなかった。有益な本、考えさせる点の多い本と推奨された。あんな事実の切れ端を盛ったものでさえ、今の私たちが世界の実情を知りたいと思っている心の飢渇に対しては、何ものかであるかのように思えた、それほど私たちは何も知らない状態におかれているのだという今日の現実は、その場合全く考えられていないのである。
今日、何かを捉えたい、知りたいという読者の心持の強さは、モーロアの本の売れ行にも示されている。だが、仮にモーロアの述作が真の歴史の動因をときあかしているものでないことが直感されたとして、読者はほかにどんな本を見つけることが出来るのだろう。どこにより正確な解明
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