今日の作家と読者
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)所謂《いわゆる》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)その人たち[#「その人たち」に傍点]のことから
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この一二年来、文学的な本を読む読者の数がぐっとふえていることは周知の事実であって、それらの新しい読者層の何割かが、通俗読物と文学作品との本質の区別を知らないままに自身の購買力に従っているという現象も、一般に注意をひいて来ている。そこに、今日の文化の地味の問題だの文学の成長の可能性の問題が、複雑な現今の社会生活の一面として横たわっていることに就て、総ての作家が無関心に暮しているわけでもないと思う。
けれども、飾ない落付いた目で省みると、この読者層の質の推移ということの実際は、昨今急速にその人たち[#「その人たち」に傍点]のことから私たちのことにまで拡がって来ているのではなかろうか。作家・評論家はそれぞれ各々の読者をもっている。読者というものをその関係の範囲に従来どおり固定させて、その質が推移しつつあることが注目されたのは一年余り前からだが、今日では状態が更に動いて、読者層の質について語ろうとすると、私たちの生活の中から、作家も評論家も読者を持っているというばかりでなく、自身が何かの形で誰かの読者ならざるを得ないという実際が浮び上って来て、それをもひっくるめたとき初めて読者層の質の問題が現実に即して考えられるように思われるのである。
作家・評論家自身がどのような質の読者として今日立ちあらわれているか、そして自身の状態をどのように自覚しているかということが、それぞれの周囲にある読者圏へ作用し作用されつつ、文化や文学の明日に影響する因子をなしていると思う。読者の問題は、もう作品を生み出してゆく人々自身がどういう質の読者であるかというところまでダイナミックに観察される時代になっている。そして、近頃は、その点でいろいろ深く考えさせられる実例が多い。何故なら、二三年前には文学の仕事にたずさわる人々は特別な専門に従って特別な本を輸入もしていた。それらについて云わば種本ともしていたのだが、このごろは、そういう便宜が次第に失われて来て、大掴みに云えば誰も彼もが大体に同じようなものを読むしかなくなっている。これまでは非常に個人的な系統と統一とをもって形づく
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