を見出す手がかりをさがせるというのだろう。
何か知りたくて一つの本を読む。しかしそれだけではどうも不満で、また別の本をさがす。つづけてまた別のを、と、今日の本の読まれかたの多量さのうちには、何ごとかが判ったから先へ進むという摂取の豊饒さではなくて、どうも分らないからまたほかのを読んで見るという心理にうながされた気ぜわしさ、乱読も相当の割合を占めて来ているのである。そして、読者としての作家・評論家を大局的に云えば決してその例外に置かれているのではないのである。みんなの分らないことは、作家・評論家にしても大してより多く分っているのではない実際であるとして、そのような状況から生れて来る作品が、それではその幾多の現実の分らなさを、分らなさとして表現しているだろうか。分らないことは分らないと端的に表現し追求することで、人生に積極な何かをもたらす芸術の健全なみのりがあるだろうか。
人間生活と歴史とは抽象に在るものではないから、作家が作品を生んでゆく心情にしろ、現実ときりはなしては在り得ない。しんからの感興と情熱とを動かされる瞬間のうちには、何かの意味で今日の歴史の命がこもっているわけだが、例えば最近或る文学賞の候補に一つの小説がのぼって、多数の投票があったが、それは生々しいテーマで当選してもその雑誌に発表されないからというのが主な理由でその小説は賞をうけなかったという噂をきいた。他の当りさわりのない作品がそれに代えられた。
こういう今日というものの在りようの中で、作者と読者とが互に困難極まる一つ軸の廻転の上に置かれていることを理解しないものはないだろうと思う。作者は、表現したく欲するものを何とか表現しようとしてあのように、このように、そして不完全に表現し、読者は何かでそれを捉えようとあれを読みこれを読み、その広い相互関係の端れでは作者その人も、何事かを知りたくて知り得ず不安な読者の一人として自身を現わさざるを得ないのである。
今日の文化と文学の問題としてこの苦しい相互のいきさつは非常に真面目に考察されなければならないことだろうと思う。作者はそれぞれ沈潜勇往して、この状況を拓いてゆくために労を惜んではならないのだろうと思う。
もし浅薄に、旧いしきたりに準じて作家と読者というものを形式上対置して、今の読者はものを知らないという風な観かたに止れば宇野浩二のような博識も、畢竟
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