たしましたが、おかげでうちの屋根は火の粉から守られました。きょうは、食堂の南側の陽向に背を向け、例の小机をおいてこれを書いて居ります。カナリアが風の中に囀って居り、ラジオの横に柔かい桃色と白との春らしい花があります。この花は丁度二十四日だったかいかにも春雪という感じの日に団子坂下の花やで買って帰ったのでしたが、その花屋はもうありません。カナリアの餌もどこで買ったらこれからいいのかしら。家の様子も十日の明方からすっかり変って、春木屋といううちにいる細君の実家の一家が五人ぞっくりと若い男の子女の子、母親が来て居ります。この一家は、いろいろのものを疎開し、御宿《オンジュク》に住居をもって居り父親は仙台の方に鉱山をやってそちらに疎開する決心して居たので、比較的元気ですしあわててもいず、ようございます。田舎行までいるでしょう。
 十日の明方には、もうバカンバンバンには辟易しているので恐縮していたら、そうでない方だったので勇気百倍、まして北風で向きがよかった上、北方上手に投弾されなかったので大助りいたしました。烈風でしたからよほど弾は流れ見ていると、殆ど横に吹き流されていました。主人公もいて(菅谷)屋根にのぼり見はりをして、ああいうとき屋根の上に男がのぼっているというのはいい心持です。となりの家では十三四の男の子がのぼり其でも一々下の母親に大体の方向を叫んでいました。男の子っていいことね。
 うちでは非常措置として土蔵の地下室に菅谷のもちものうちのものなどしまい、すっかり入ったら二階の畳をはいで、グランドフロアにしきつめ二階が燃えても地下はいくらか助かるようにしました。他人がいると、その人のこころもちを考え、こうしてここを守ることはとりも直さず自分を守ることにしてやらなければ、ね。その仕事したら手伝に来ていた荷作りの男が、自分のものも入れてくれ、ときのう荷車一台ひっぱって来て自分でしまってゆきました。
 この地下室は因縁があって、英男という弟が高等学校上級の年この中でガスを発生させて死にました。昭和二年頃。国男たちはそれでここがこわいのよ。わたしは遠方にいて[自注5]、自分の目で見て居りませんから、その弟の善魂がそこに在るならあると思うし、おバケが出るなら火消しに出てくれると信じていますからそこを十分に活用する決心いたしました。そしてわたしはベッドを食堂へ持っておりて暮す予定にして居りましたが、目下のところ人員増加で、ここで一緒に食事しているし、すこしそれはあとになりましょう。ラジオがここにありますから、ここに臥る方がいいのよ、一々二階からおりて来るよりは。
 きのう(十日)は一時間半ほどしか眠らないで体がくにゃくにゃだったけれども、御心配だといけないと思って大苦心をして、田端まで歩いて行きましたところそちらもお休みでした。帰りは、池袋が余りの人で危険ですから大塚まで歩き又田端へ下りたら丁度一機来て、あすこの辺からうちの辺鬼門故首をすくめて歩いていたら何事もなく帰りました、そしたら解除。
 きょうは、久しぶりにしずかな日曜日で(二十五日も四日も日曜よ)今、その連中も焼跡片づけに出て居りますしうちは一人でこれを書いて居ります。あの足袋は、たしかに傑作の一つね。材料が全く優秀なのですもの。あれが出来たときには全くうれしく何しろ生れてはじめての作品ですから、我ながらほれぼれと眺めました。同じ色の布で自分の分も裁ってございます。が、まだ縫わず、よ。足袋と下駄の鼻緒とはどうしても自分で縫う必要がおこって居ります。しかしこうして男のやる仕事(家具や荷物)も自分でやらなくてはならないから、ほっと一休みしたとき、わたしはどうしても足袋をとりあげにくいわ。本をよみたい心が押えられないし其があたり前と思うのよ。ですから、自分で縫ったものの必要切迫ながら、只今までのところあなた丈です、ああいう足袋はいていらっしゃるのは。反対にわたしはあなたのお下りよ。大量の生産品が、自家製より優秀になってこそ、です、本当におっしゃるとおりと思います、それと同時に通信販売の信用が増すということも、ね。カジョンヌイ[自注6]という言葉が、笑い話の種になっている段階は克服されなくてはなりません。
『国民食糧』お役に立ってようございました。言っていらした雑誌ね、あんなに苦心して(ここまで書いたら、静からしかった空にサイレンが鳴り出しました。)集めましたが古すぎて駄目でしたって。[自注7]残念ね。
 きょうは十二日(月)ひどい風が納って安心です。風は大きらいよ、昔から嫌だったのが、この頃は猶更。
 昨夜目白の先生が見舞に見えて、もしここが駄目になったら、目白へ行くということにきめました、何しろ焼け出されの人々を、御勝手に、とも云えませんし。そして清瀬の方に、もしかしたら部屋を見つけて貰えるかもしれない話でした。開成山開成山と思っていたってどういう風になるかしれませんから、やはり歩いて行けるところに一つ予備のある方がようございましょう。
 やけて来ている人の中に中学一年生がいてね、犬や小鳥がすきで、焼跡の始末から帰って来ると仔犬を抱いたりカナリアを見たりしているの。太郎は田舎で御飯たきをいたしますって。太郎の一生のために何にも代えられない仕合せです。犬好きの少年も太郎も可愛いと思います。十日に行ったときパール・バックの支那の空と支那短篇集『春桃』をおいて参りました。『春桃』は面白い集でした。氷瑩女史の「うつしゑ」という作品なんかも、パール・バックが描いている現実のこっち側から書いているという風なところがあって、やっぱり本国人の作品というあらそわれない味があります。アンデルセン風の話を書いている作家は大変心情的ねガルシンが思い出されるように。日本のああいう種類の作品にあの程度のものはないと思いました。「菊の花」「根」[自注8]などはましな作品でしたが小規模であったしモティーヴが、独語的(よい意味にも)でした、中国文学研究会の仕事としては有意義であったのにああいうのが続けて出なかったのは残念です。きっと興味ふかくお思いになりましょう。近頃心ひかれた作品集です。目白の先生にたのんであった本も、もち主が東京にいなくなっていたりしてなかなか手に入らぬ由、あのお手紙にあった以外の本でもよかったらとにかく貸してもらうとのことでそのようにたのんでおきました。辛い点なんかといつも思っているのではないのよ。時々丁度腕がくたびれたとき急に持ちものの持ち重りがするように、あれこれのことが畳って自分が疲れたりその結果ダラダラになったりつまりこっちが弱いモメントに御註文のテンポの重みがこたえるというわけでしょう。しかし実際問題として南江堂もなくなったし本を見つける困難は言葉につくせなくなりました。『春桃』も金沢市の古本屋から上京した本でした、そういう紙が貼ってあったのよ。昨夜瀧川という夏頃手伝っていた娘が、会いたくて思い切って福島から来ました。わたしは大助りよ、いろいろ手伝って貰えるから。きょうもあっちこっちの見舞に一緒に歩いて貰いました、何だか別のようになってしまった街々のやけたところを一人で歩く気がしなくて。この春は眼をよほど大切にしないと焼け埃で大変です。ホーサンでかえると洗います、ゴロゴロになってしまうのよひどくて。頭巾をこしらえようと思いますフードを。一陣の風がふけばその風のまきおこすホコリは髪と皮膚を滅茶滅茶にいたしますから。普通の服装では駄目です目下ゴム長を見つけ中です。わたしがフードをかぶりジャンパーを着(いつもきているの)ゴム長をはいたら、それこそ何かのマスコットのような姿になりますが、ゴム長でもなくてどうしてあの道をそちらへ行けるでしょう。わたしがマスコット姿でそちらへ通うということこそマスコットなのだわ私たちの暮しの、ね。呉々もお大切に、そちらが、狐火のようなものには丈夫なのは安心です。明日おめにかかれるかしら。くすぶってもいない顔を見て頂きましょう。
 では

[#ここから2字下げ]
[自注5]遠方にいて――当時百合子はソヴェト同盟に滞在していた。
[自注6]カジョンヌイ――「役所の」の意。
[自注7]古すぎて駄目でしたって。――監獄で雑誌は一定の時期がすぎると差入れを許さなかった。
[自注8]「菊の花」「根」――中野重治の作品。
[#ここで字下げ終わり]

 三月十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 三月十五日
 けさは出かけようとして御飯を終ったとたんボーとなってしまいました、森長さんの返事をお待ち兼ねと思いウナで電報出しました、早く御手許に届くでしょうと思って。
 きょうは又曇りました、そして少し寒いこと。警報がこうして出っぱなしだと、用足しも遠方には行けないから、午後からもし平安だったら、すこし珍しいひるねということをしようと大いにたのしみです。
 七八人もの茨城屋の足音のきつい人々が、夜おそく朝早くとどろとどろとふみ歩いて、もちを焼く匂いを二階までよこして出つ入りつしていると、やはり疲れます、それに、二十五日、四日、十日、とつづけてでしたし、ね、きょうの工合はどうでしょうと思って居ります。きのうは、大洗濯いたしました。焼け出されの躾みとして、ね、洗った襦袢をもっていなくては余りですものね、いろいろ見ているとたしかに、非常の躾というものはあるのよ、女の人なんかは。着たきり雀になる以上、それは堅牢な着るもの、はくものでなくてはいけません。今、来ている瀧川さんという娘が、上っぱりを一枚縫っていてくれます。もんぺも一つこしらえました、それがとりに行きたいのにきょう、これでしょう? 成城というようなところが、こんなにも遠方になります。
 三月十八日
 けさは、目がさめてから暫く床の中にいて、いかにも土が黒く柔かくなってゆく朝のこころもちでした「春らしい朝ねえ」わたしがそう声をかけると、となりから答えがあります「本当にそうですわねえ」これは瀧川という娘よ。このひとの兄は蔵前で到頭義母(妻の母)と焼死しました。
 起きて、朝飯たべて、それから二人で畑ごしらえをしました。この娘さんは畑の畦を切り、わたしは去年の秋からこしらえてあった肥料をかけ、又土をかけ、小松菜やふだん草やを蒔きました。種が余りよくなくて自信ないけれども買いに行っていると、きょうのことにならないから、蒔いてしまいました。この節の野菜なしと来たらお話の外ですから。「この頃のような暮しだと、こわくない半日だの不安のない一時間が実にうれしいわね、玉のようね、だから、そういうとき、本当にたのしいことをしたいと思うのに、ダラダラ儲けた話でつぶれるとくやしいのよ」そんなことを云い乍ら、桜の鉢をいれかえたり、水仙の球根を植えたり、シャボテンに土をかけたりして、殆ど終ったら警報が出ました。
 今、午後三時頃。二度目の解除。わたしは、そのたのしい数刻を尊重して小机をかかえこみ、瀧川という子は、わたしの上っぱりを縫いはじめました。風が出て来て、カナリアのチイチイチイ、チチチチチというメロディアスな声を吹きちぎります。
 きのうは、朝六時にトラックが来て、春木屋の荷と人とをつんで茨城の田舎へ運びました。ここの家には今おやじと中学二年の弟とがいます。弟はずっとここから京華に通うでしょう、おやじは、東京にうちがなくなったから上京すればここに泊ります。「その代りあっちからお米や何かは運びますから」「その代りと云わなくたっていいさ、もって来てお貰いしなくちゃどうせならないにきまってはいても、ね」
 わたしたちが畑をしているとき、細君は椽にかけてつくろいものをしています、息子はムツという犬を抱いてムツが何か食当りしてくにゃくにゃだと云ってしらべています。都会の人って面白いのね、わたしたちは誰かが土いじりしていると、つい誘われて何かしたくなるのに、町の人ってものは、そういう気分が全くないものと見えるのね。
 きのうは、六時頃起きて荷出しにガタガタしたから、何となしうんざりして思い切って成城までモンペとりに出かけました。行ってよ
前へ 次へ
全26ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング