ても様子は知れぬこともあるまいとそれが残念でなりません。」十四日に光工廠大爆撃をうけ工廠は全滅、野原に火災が起ったけれども、宮本の家は屋根を痛めたすかった由です。一同無事。岩本全焼、明石絢子宅全焼。(世田ヶ谷にいた人ね)「顕治は東京より北海道の方が無事と申しますので安心致して居ります」「何も彼も懸念の事ばかりです。」
〔欄外に〕八月五日のお手紙御覧です。
本当にトラックに三日ものっていて、(ねるところが無かったわけでしょう)それをどこへ運ばせたのでしょう。どこかへ行こうとして(治療に)途中で容子が変ったのでしょうか、たった一人でゆく筈もなし、実に奇妙です。たった一人なら被服も滅茶滅茶で名も分らずでしょうが。原子爆弾の負傷はどんな微細なものでもそこから腐蝕して生命を奪うそうです。東大のツヅキ外科へ入って死んだ人は指の先のかすり傷でそれが全身に及ぶ由、強烈なレントゲン照射にあったと同様で細胞を破壊し、白血球の激減がおこり、輸血するとそこから腐蝕し、毛髪脱落するそうです。
今郵便局へゆき、切符買えたらすぐ行くと打電しました。同時にそちらへも御覧の通りに打ちました。そちらの切符がまだ見とおしも立たなかったのが不幸中の幸でした。明早朝買いにゆき、買えたら最も早い機会で立ちます。多分新潟まわりでしょう。
友ちゃんのこと、子供らのこと、お母様のお心のうち万々お察しいたすにあまりあります。健気にぐちも書いていらっしゃいませんが、どんなお気もちでしょう。申しあげようもありません。此の上は、隆治さんの無事に還る日が一日千秋です。(在外邦人はみんな帰すそうです。八十万内地に戻るそうです。)
ともかく行って出来るだけおなぐさめもし善後策を講じ、行方をさがしましょう。心のこりというのはこのことです。三日も命があったというのにね。トラックにのって行ったらその番号の車がどこでどうなっていたかさえ分らないというのは。混乱の程思いやられます。二十六日づけのお手紙です。きょうはもう四日、九日経過しています。新谷という人は多分死去してしまったでしょう。トラック番号をきくことさえ手がかりを失ったかもしれません。隊の解散がひきつづきましたから責任不明となり、本当にわるいめぐり合わせでした。わたし達も其だけの負傷をして、相手が原子である以上、覚悟して処置しなければなりますまい。其にしても行方不明というのは。実に解せません。しかし、東京で現に五分前まで一緒の家の壕にいた我娘が遂に行方不明となった人があったりします。いろいろの場合を思いやり、生きるために努力したことを考えると涙が出ます。友ちゃんと子供らの顔にはげまされて、力をふるって自分を救おうとしたのでしょうのに。可哀想に。可哀想に。
島田までゆけば一週間や十日で戻ることは不可能です。少くとも、暮しの見通しがつき、気持の落付きがいくらかできる迄はいてあげなくてはなるまいと思います。経済上の問題も深刻でしょうと思います。トラックを処分したりして目前にはいくらかのゆとりをおもちでしょうが、タバコと米配給の手伝い丈ではなかなかやれますまい。合同の方の仕事の権利を応召のときどういう契約にしていったか、それによっては代理として人を雇い、そのものにうちから月給を払って働いてもらうということも、これから先、人の余るときには可能でしょう、反面に不可能の条件もましますが。
こういう事情になって、そちらへは本当にいつ行けるのでしょう。しかし、今島田へゆくことに論議の余地はないと思い、そのようにいたします。私の判断で最善をつくしますから御心痛ないように。次々と様子をお知らせいたします。
九月十五日 [自注26]〔網走刑務所の顕治宛 山口県光市上島田より(封書 書留)〕
九月十四日
さて、この手紙は島田で書いて居ります。あの二階で。
五日に、切符が買えたとき埼玉県へ打った電報が六日にわたしの行ったときまだ着いて居ませんでした。七日に、てっちゃんとうち合わせの電報もつきませんでした。こちらへは、手紙を頂き、来る決心をしたときすぐ(四日)電報うちましたが、そのウナは、十三日(きのう)わたしが来ても着いて居りませんでした。妙ね。手紙の方はどうやらこの頃よく着きますが。従って、おかあさん達にとって、きのうの午ごろ、わたしは突然現われたわけでした。
大分苦心して郡山から島田迄の切符を買いました。それが五日。六日に出発して、その日の午後埼玉県の久喜に途中下車。荷物のことや何かいろいろ世話になった友人のところへよりました。七日はそこにいて、八日てっちゃんのところへ行く予定のところ、八日マッカーサアの東京進駐で、いくらか普段と違うというので用心して九日てっちゃんのところへ行きました。どこでもいろいろ新しい用事が出来ていて、いろいろ話し、十日に鷺の宮へ行きました。文報のことやその他あるので。十一日早朝八重洲口の列に立って急行券を買い、十二日朝五時に家を出六時半から立って、八時半の急行に乗りました。この時間にゆくと坐れました。そして、島田へ着いたのは、十三日の殆ど午頃。十二日に四時に起きたときから算えると、三十二時間かかっているわけです。汽車丈二十六時間ね。横浜辺からもう立つ人が出来はじめ名古屋で通路がふさがり大阪以西は謂わば二等も三等もないという有様でした。久喜で降りるときには窓から降りました。岩国では昇降口から出ましたが。半島へかえる人々解除の人々、それがみんな体のもてる限りの荷物をもつのだからえらいことです。托送が無事に着くためしなしというような不信用が漲っているし、解除の人々は大体自分の荷物の内容について神経過敏ですから。
三時三十五分位に広島へ着く筈のところ七時半頃に着。いつものようにのりかえようと思って一旦降りましたが、駅は全く旧態なく地下道丈もとのままです。島田へ行くのは何時に出ますかときいたら、片腕のない少年駅手が、四時二十分! と申します。四時二十分って――午後? と訊いたら四時二十分て云ったら午前だぐらい分ってるだろう! こういうあいさつです。次は何時です? 分らん。さては、と思って又大急ぎでかけ戻り、幸停車していたもとの車にのって岩国まで来ました。ここで三十分ほどで海岸まわりの本線にのって無事つきました。
東海道と山陽本線は、東北本線と何たる異いでしょう。いままでよりもずっと時間がかかりここまで来たのに、まるで東京からぬけきらないままのような気がします。焼跡つづきだから。急行ですからすこし大きいところにしか止らず、止ったところは皆実にひどくやられて居ります。東京も実にひどいが面積がひろく、その中にいるから、汽車で森や畑を抜け出たと思う都会毎に原形をとどめずという風になっているのを見るのとは、おのずからちがった感じです。
広島はひどいわ。己斐は勿論のこと、五日市でしたか、あの辺までやけて居ります。爆風か爆弾かにやられたところもどっさりです、近郊で。岩国もひどいわ。光井に行ったら又おどろくのでしょう。島田では、そういう被害は一つもありませんが、駅は雑沓して、且つ気分が亢ぶって居ります。
達治さんのことは、本当に何と云ってよいか分らず、まだ不明のままですが、一ヵ月経った今は、覚悟していらっしゃいます。それにしても不明というのは腑に落ちません。わたしとしても、ここまで来て不明だということです、ではどうも気がすまないので、二三日してすこし疲れが直ったら本部へ行ってよく調べて来ようと思います。そして、分散療養させてある各所の責任部を調べ、その各所宛返事を求めて見ましょう。帳簿には軽傷とあり又別のには行方不明とあり双方に記載されて居ますのだそうです。大混乱だったのでしょう。
友ちゃんも可哀想に寂しそうです。子供たち二人は元気です。輝の方は勝より疳の高ぶったなかなかがむしゃらな子です。割合この辺の子供は粗暴ね、東北の子供たちと一寸又違います。おかあさんはおじちゃんをたよっておいでです。子供たちにとってこわい人がいるから、と。輝にはたしかにそうね。この子は、よく導かれ、程よい重しがつかないと自分の廻転を止めかねるような男らしく見えます。父ちゃんのビールや酒を、ちょいと目がはなれると、のんでしまうんだって。
前の河村さんのところでは、下の写真をやる方の息子が、千葉から解除になって戻り、もう一人は隆ちゃんと同じように濠北の由です。帰った人はいろいろおみやげをどっさりもって来て、あの夫婦は自足しているようです。達ちゃんのこと、あきらめにゃいけませんと二言目には云うと友ちゃんが述懐しています。その気持はよく分るわねえ。燈を明るくし、ラジオは天気予報まで云うようになったとき、あっちこっちで帰って来るとき、もう帰る希望のなくなった友ちゃんやお母さんのお気もちは想像にかたくありません。友ちゃんは臥ることもなくて暮して居りますが。
経済の面では、自動車を処分したり、又達ちゃんが出る前に部分品の整理をしたりしてちんまりしてゆけば輝が成人する迄はやって行けようというお話です。わたし達の出来ることはいつも乍ら些少です。基本をそうして何とかやれて行ければ大いに助かります。お母さんは「わたしのいるうちは何とかやっちゃいこうが先は長いから」とおっしゃいます。「それは全くそうですが、兄や弟が子供の二人ぐらいは何とかいたしますよ」「ほんにの、うちの兄弟は仕合せと思いやりが深いからどうにかなろうと云っちょるの」友ちゃんは自分の健康が十分でないことで消極になっているようです。「これ迄あんまりふ[#「ふ」に傍点]がよかったからこんなことになったやしれん」と云っているそうです。余り、というほど仕合せを感じていたのなら、せめてもです。
卯女の父さん、てっちゃん、鷺の宮、開成山からお見舞をもって来ました。わたし達からは百円ともかくさしあげました。わたしが帰るときには、この前野原やこっちへお送りした分ぐらいおいておこうと思って居ります。必要はないと云ったって心もちのことですから。それにつけ、こういう不幸が、いくらかわたしの収入のひらけた時に起ったのは不幸中の幸と思われます。過渡的な状況ですしあれこれと妥協点が求められているし、或線で彼我一致の利害もあり複雑ですから、決して前のめりはいけないけれども、昨今の事情にふさわしい範囲で相当いそがしくなります。
いつぞや筑摩から金を前に借りることはしない、つまり原稿をわたすことはしないと云って居りましたろう? あれはよかったわ、筑摩は、あの頃の気分で本の内容に希望をもっていました。わたしも殆ど同じ一般の空気の中にいたから自分から云い出した題目でしたが、(それは昨年の暮近く)段々こころもちが変って、書かないでよかったわ。今のこころもちで、この状況の中で、第一番に宮本百合子の出したのは、子供時代の思い出だというのではわたしも情けなさすぎます。何も可能の第一日目に出なくたって、必要なものが出されなければならず、その必要なものというのは、昭和十五年から二十年前半までの文芸批評であり、それを極めて立体的に扱ったものであり、「十四年間」と一括されたものでなければなりません。前途に展望と希望とを与え、新しい文学の働きてを招き出す息吹きにみちたものでなくてはなりません。それは、ほかの誰にでも出来るとも云えますまい。鎌倉住いの作家連は出版事業を計画中の由。所謂職業作家が、彼等の波に漂う精神をもって、新しい日本に何をもたらそうというのでしょう。
こちらには、読まなくてはならない本をすこし持って来て居ります。
お母さんが、そちらからのお手紙見せて下さいました。八月二十六日の分も。そして、その中に、わたしがそちらに行く計画も変化したかもしれずとあり、その通り御洞察と思いました。
いろいろの点から、これからそちらへ行くことはやめます。網走を知らないことは残念ですが、少くとも来年の春迄の間に、わたしがそちらへ行くことはおやめにいたします。書く仕事の点から丈云っても、資料の関係や何かで東京にいないと困りますが、食物が余り閉口で、
前へ
次へ
全26ページ中24ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング