売は停止中となりました。何度調べるでしょう。そして何度駄目でしょう。六月から八月と、諸事プレストで進み、変化して、きょうは胸にしみるほど山並のくっきりとした秋の晴天の下に、男の子たちが一日ベニヤ板製の補助タンクの払下になったものを燃料にするためにこわして居ります。樫の枝が風にさやさやと鳴っている下で、彼等は、声を限りに叫び、合図をし号令をかけて、独木船のようにしてころがしたり、斧で※[#「斬/手」、647−13]ったりして居ります。原始人の感じが分ります。一つこわして一つ形が変化するにつれて其にふさわしい応用を発見して遊び実に飽きず、小さい小さい健坊まで尻の上へ兵児帯を下げて、ハダシでかけまわって居ります。子供たちの此頃の遊びに安心して没頭する様子は見ものです。此まではいつも見えない緊張があって、心も身も傾けてという風ではなかったわ。遊びでも打ちこむということは大切です。子供にとっては。
 さて、この頃の毎日はラジオをきくことを欠かされません。昨二日は、宣言受諾に関する書類の正式調印で、重光、梅津両全権が東京湾のミズーリー号の上でマッカーサーやウェーンライト、パーシブルという人々、その他中国、ソ、オーストラリア、オランダ、カナダ、ニュージランドなどの代表が調印したそうです。日本人記者二名が陪観し、その艦上にペルリが下田へ来たときたてていた星条旗と真珠湾に翻っていた旗とを二つ貼ってあったということを報道しました。
 それからね、マッカーサーは、「ガラスのペン軸をとって」署名し云々と、その記者は申しました。わたしは何だかこの小さい一つの不確かな観察の中になかなか意味があるように思うのよ。物を書く人間の感覚として、昨日マッカーサーが記念的署名をするときに、貧乏謄写屋のようにガラスのペン軸を使うなどということは信じられません。きっと其は最新流行の合成樹脂の透明なのでこしらえたペン軸だったのだろうと思います。昔なら銀をつかったところでしょう。日本では、以前贅沢品ばかり売っていた店に、贈物用の櫛、シガレットケース、傘の握りなどとして並べられていて、一般の日常生活には入っていません。その記者も一瞥で、それをガラスとあやまったのではないでしょうか。こういう点に何か不確さを感じさせるような常識の差異があるわけです。そして其は、最高の科学にも通じている道です。
 昨夜、スウィスの新聞が「日本のような大国が、事態変化に応じて直ちに連合国に協力し得るということは一つの驚くべきことだ」と云っている由放送しました。ロイテル通信によれば「外交問題専門家の見解はドイツと日本とは全く違っていた、日本はバルカンの事情により近似している」と云ったと放送がありました。そういう世界の声、眼がまぢかに伝えられるのが、一区切りすると、近松門左衛門作忠臣蔵の舞台中継、さもなければ講談などというものがあります。
 それらの間に挾って、わたしはそちらへの切符のことを思い、仕事を考えて居ります。
 わたしは、ともかくどうしてもそちらへ一度行かなくてはなりません。いろいろの用事や相談にのって頂きたいこともあって。
 いろいろの人が身のふりかた――身の上相談もあって。例えば、うちの知合で、芝のおじいさんがいたの御覚えでしょうか。その人の息子がわたしに会いたいのですって。これも身の上相談よきっと。就職についてでしょう。てっちゃんもあの勤めはなくなりましょう。わたしは、しかしいそいで上京し、たよりにならない相談対手を買って出ようとはして居りません。ともかく、そちらに行き、わたしは、勉強し書いてゆくことを益※[#二の字点、1−2−22]旺盛にしたく、身の上相談の先生になろうと希望していないこともお話したいと思います。
 仕事としてのスケジュールは又おのずから別です。仕事の点では十分計画をもってやって行きたいと思って居ります。当面、「昭和の十四年間」の後半二十年中旬までをまとめようときめました。これは不可欠な仕事です、日本文学が前進するためには、歩いて来た道を真面目に見直さなければならないのですから。
 中国文学研究会の仕事は消極的ではあったけれども『春桃』を出したりしていたのだし今後益※[#二の字点、1−2−22]有益な活動をしなくてはなりますまい。
 アメリカ文学の高い水準での紹介(ジャーナリズムは翻訳を氾濫《ハンラン》させましたから、或はそういう出版インフレ時代のホンヤク丈についてさえも玉と石とをふるいわけることも必要でしょう)批評も必要です。
 これまでの外務省式のやりかたは「紹介」に止って、それに伴った歴史的展望を欠いていて、いつも卑屈な商品見本のようでした。輸出文学をアメリカに送ろうとして失敗した例が現実にあるのですものね。十六年より前の「親善」期に。
 今日では、日本の文学の到達している世界的水準を明瞭に押し出して、日本文学と同じにアメリカ、中国、ソの文学、イギリス、フランスの文学を観察し得るという能力を示さなくてはならないと思います。そういう機能を高めることは、日本の発展のために重要です。アメリカは「日本がデモクラシーを理解する迄」と事毎に申します。これは興味あることね、即ち日本はアメリカが今日包蔵しているデモクラシーのキリキリ迄民主的であっていいわけなのだし、そうしなければ日本の屈伏は無制限だし。
 文学に専心するいい雑誌をどこが出すでしょうね。金儲けでない。そして執筆する人々もジャーナリスティックでない勉強家であるというような。しかし内容も執筆範囲もひろく、執筆者の経済面も市価を保つことが、只今のような生活事情のときは必要ね。C社、Iなんかという人のぐるりは、ああいう「食いたい連」がワヤワヤだからきっとあれこれ「文化的計画」があるのでしょう。「文化」という言葉が再登場しはじめました。其は厳密に扱われて、再登場の喜劇を演じてはならない立場に置かれていると思います。
 日本文学史が世界的見地から書かれ、其ままホンヤクされれば、世界の知識人に会得され得るようなものの出ることも大切です。フランス文学にしろ堀口大学のような「専門家」は不用です。追随者は必要でありません。すべて前進させ得る見識が必要です。
 わたしは本当に勉強したいのよ。眼がこんなに弱ってしまったのが何と残念でしょう。しかし夜早くねて早くおき仕事せざるを得ないのは却っていいかもしれないわね。てっちゃんにも文学上のあれこれの希望ははなしました。わたしの書きたい小説はまあそろそろと、ね。
 旅行は、どっちを向いても極端に困難です。けれども、もしこの月半ばまで待ってみて、どうしてもそちらへ行く手筈がつかなければ(青函連絡は一艘でやっている由)忙しくなる前に、こちらから島田へ一寸でもお見舞に行って来てしまおうかと思いはじめました。
 達ちゃんの安否についてまだ御返事頂きません。丸山定夫一行十七名の移動劇団が広島の福やデパートに泊っていて、全滅いたしました。福やはわたしも知って居ります、あすこから電車で護国神社まで行った覚もあります。目下のところ一番気になるのは達ちゃんのことですから、どういう形にしろ忙しくなる迄に島田へ行くのも一つの方法と考えます。あちらに住むのは不便でしょう。子供二人にお母さん友ちゃんとわたしという組合わせでは、女である私はここにいると同様になってしまうでしょう。最悪の場合を考えても、やはり私はあちらに住まず、仕事を自由にたっぷりして、その結果で出来る丈お力になるのが一番よい方法と思います。岩本さんの娘が来ているらしいのね、文子というのはその娘さんのことなのね。そういう人がいれば猶更わたしは、あちらにいる間は若い女教師の常識で納得出来る暮しぶりでなくてはならず、それは定評をつくり、つまりお母さんのお気持に及ぼしますから(それに岩本家というところの風があなかしこだから)。途中東京へ一寸よって見てもいいかと思います。てっちゃんなんかに。(仙台からおくさん子供よびもどしたい由)そうするともう十月ね。わたしの心配は、郡山、青森、函館というようなところはいずれ進駐地でしょうから、その時はまた交通途絶いたします、よほどうまく取計らわないと今年一杯、それ又ふさがったで過してしまいそうで、あぶなかしくてたまりません。だから、どうぞして本月半ばまでにそちらに行けるようにしたいの。それにしても、あなたは何と僅かの間をお動きになったことでしょうね。
 そして、郡山が進駐地となり、その場所はどこだか、其によっては出入りがずっと面倒くさくなりましょう。双方で馴れる迄ひどく慎重らしいから、一定の地域の通交[#「交」に「ママ」の注記]人の身体ケンサしているらしい風です(ラジオでの話)(横浜など)わたしはどうしても忙しくなり、動きも多くなりましょうから、そういう場合は不便でしょうと思います。東京なら広うございますけれどもね。
 七月には三日に手紙かいて下さいました。きょうは三日ね。やはりそちらもこんな秋晴れでしょうか。そして手紙書いて下さったのかしら? こちらもこの一週間ほどは夜冷えてすこし厚いかけものを出しました。今、もって行く薄どてらを縫って貰って居ります、夕方なんか羽織がいるのではないでしょうか。海はどんな色でしょう。二、八月というから九月の海は荒いのでしょうね、濤の音が聴えるでしょうか。風の音が二百十日後は変りました、乾いた音がきこえはじめました。
 竹越三叉の『二千五百年史』の四十二年版が焼けのこりの古本やにあってもって来ました。箕作元八が西洋史を扱ったのに似た方法ですね。文章が文語ですが弾力にとんでいて、やはり箕作の談論に似て居ります。三叉という人は一種の人物でしょうと思いますが、年代がずっている故か、環境がずっている故か(慶大関係)すっかり歴史の中にしかきこえない名のようです。三浦周行の『法制史研究』は面白そうなのに下だけしか買えませんでした。風邪をおひきにならないようにね。
〔欄外に〕○郡山の市は本やがありません。

 九月四日 〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書 書留)〕

 九月四日(一九四五年)
 只今お母さんから速達が来ました。達治さんの安否について心配して居りましたところ、やはり最も悲しいことになったようです。形は行方不明ですが、生存は万※[#濁点付き小書き片仮名カ、652−15]一にも期しがたい前後の事情です。お手紙の要点を申上げます。
 七月十七日召集をうけ広島に入隊。八月二日に休暇が出て、四日に又戻り、「六日の朝八時原子爆弾にあいました。当地も日々空襲で汽車不通」十二日に友人が広島へゆき調べてくれましたが、原隊では本人当日軽傷なるも行方不明とのこと。いろいろ調べたが不明。四五日したら患者を集合させるからとのことで又十七日の調べで生死不明、行方不明ということになったままです。
 ところが十六日に周防村の新谷という一等兵が来て、負傷後宮本と三日一つトラックにいた。傷は後頭に一寸位の破片による傷二ヶ所、顔に薄い火傷。出血は六日午後に止った。帰っているかと思って来たとのことです。十三日に帰宅命令で戻った由です。お母さんがその人の宅へ行き、いろいろ細かにおききになったそうです。達ちゃんは、手当をうけられないからと三日目にトラックへ乗ってどこかへ行ったというので、病院などもお調べになったが不明。二十四日、友ちゃんが友人の西山と同道本部へ行き、いろいろ調べたが、隊では三日いたことさえ不明の由。負傷者は十里二十里先、島へまで運んで迚も調査ができない由、兵営は全滅。何万という人だそうです。原簿がやけてしまったそうです。広島全部焦土の由。その上生きている人々は解除で四散し、全く手のつけようもないようです。「原子爆弾は一寸の傷でも受けたら毒素が体内に入り、負傷後死する人が沢山あるとのことで、新谷兵[#「兵」に「ママ」の注記]も宅へ帰って大変の熱が出て、なお生死の程も気づかわれて居ます。今だに達治の死体が分らないというのは不思議です。たとえ広島は焦土と化しても三日も生きていたのなら、どこで死んでい
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