めると、先ず円周率ということから、やり直しね。
只、いくらをかけるとして学んで居りますから。しかし、太郎も、こうして勉強するのが、自然と地になっている人間がいると、落付けるらしくて何よりです。勉強なんて、つまるところ、頭の体操ですものね、大切なことです発育には。
アナトール・フランスの遊歩場の楡の木を読みました、いろいろ感じ、アナトール・フランスという作家と自分とは、肌《ハダ》の合わない感じを、新たにいたします。アナトールの文章は体温が低いのね、知力で体温が下って居るようです。現代物語なんか素材としては忌憚なく作家としてまともな突こみで、大人らしくぶつかっているのに、わきから、書きすぎていて(作家自身のインテリジェンスの平静は乱されず)というところがありすぎて、文章がやせていて(磨かれすぎていて)迫力よほど低うございますのね、バルザックは、彼のめちゃくちゃさ(人くさくて)、面白いとしみじみ思います。文学の歴史ということを思いかえします。いろいろな素質の(秀抜な)集積として現代は、より凡庸な(彼等と比較して)作家にも、ずっと前進した地盤を示して居るのですものね、問題は、作家がどこ迄其を自覚し、どこまで自分をそこできたえ得るかというところでしょう。
バルザックは本当に面白いわ。昔トルストイに深く傾倒いたしました、そのころの年齢や何かから、トルストイのモラルが、その強壮な呼吸で、わかりやすい推論で、大いに、プラスになったのでした。けれども、明日の可能はトルストイの中にはないことねえ。妙な表現ですが、トルストイは或意味で、世界に対する声であったでしょう、バルザックは世界に対して一つの存在です。声は、整理され、或る発声により響きます、存在はそのものの存在自身で、その矛盾においてさえ、主張する生活力を示して居ります。わたしは、この頃、この、それが在るということの微妙さというか、意味ふかさを痛切に感じます。或るものが、或る在りようをするということ、そこには何より強いものがあります。ぬくべからざるものがあるわ。そしてそれが人生の底です。歴史の礎です。いかに在るか在ろうとしつつあるか、ありつつあるか。ほかに文句はいらないわ。小説もここのところがギリギリね。小説の文章というものはその意味から云って、一行も「叙述」というような平板なものがあるべきでありません。人間が考え動きしている必ず人間がついている、その脈搏、その必然で充たされていなくてはならず、そういう、きびしいリアリズムの点つけから云うと、志賀直哉は、やはり偉いわ、セザンヌと同じ意味で。似た限界において。漱石が大衆性をもっているのは、或意味で、あのダラダラ文章イージーな寄席話術の流れがある故です。小説らしくない文章の人――山本有三、島木健作が、文学的でない人にもよまれるというのは、面白い点です。文化の水準の問題としてね。すこし年をとって、一方にちょいとした人生論が出来上ったりしている人物が露伴や何かの随筆をすくのも、程よい酒の味というところね。随筆とくに(日本のは)人間良心の日当ぼっこですから。ああ、わたしは、又わきめをふらず、一意専心に、このセザンヌ風プラス明日という文章をかきたいわ。のっぴきならざる小説が書きたいわ。文士ならざる芸術品がつくりたいわ。堂々と落付いていて、本質にあつい作品が書きとうございます。ブランカの精髄を濺《そそ》いでね。
今はもう夕方よ。台所から煙の匂いがして太郎は書取中です。
ところで、生活の中にはほんの一寸したことで、実に意味ふかい徴候という風なものがあるものだと思います。この間、六七年ぶりで、戸塚の母さんに会って、暫く話しました、五月初旬の詩の話も出たりしてね、そしたら、その頃、リベディンスキーの「一週間」を又よみ出したのですって。「わたしは泣きながらよんだんですがね」というの。ほんの小さい一句です、しかしこの表現は何と報導班員らしさにみちているでしょう、そういう表現はきまりわるく思った筈の人なのにねえ。そして、又暫くしたら、又何か読んだ話が出て又同じことがくりかえされました、「泣きながらよんだんですがね」私にはどうしても忘られないの、そして、忘れないこころもちをお話しずにいられないの、大切な大切な言葉の感覚、感じかたの吟味というも、生活のやりようで、どんなにでも変るものであるということの痛烈な教訓です。そしてこういうことも、考えます、ものは――人の心は充実していれば、感傷は生じません、愛に充実したとき、一心さに充実したとき、泣きながら、という風の感傷の形は生じず、思わず、涙あふるるという形です、これは本質にちがいます。泣きながら云々という表現は、卑俗で皮厚性であるばかりでなく、感動すべき事実と自分の生活内容の自覚との間に或る、あき間が生じた心理なのね。
そう思えば、云った人自身、その言葉の心理に、ほんとに泣ける位のものだと思います。
でも、泣きながら、ということを寧ろあるよい感じやすさのように自分から評価して云っているようでした。わたしは、自分のこころが一箇の杏か何かであって、荒々しい指で、ピッピッと、皮をむかれるように、苦痛でした。しかし其を其ままに云うような友情はもう存在していないのねえ。友情というものが経験する最も深い苦痛の一つを経験したと思います。静《シヅカ》が、昔を今になすよしもがなと朗詠したのは、現実がいかに、きびしいものであるかという事実への歎息ね。
或る人に対して、寛大になり遂に、内的な要求を敢てしなくなるということは人間の絶望の一方の形ね。ある見限りをしたとき、その人に対してわたしたちの心は何と平静でしょう、よしんば苦痛一杯でも、怒りはないのね。それは寂しいこころもちね、生きている間は、真に生きていたいと、どんなに、思うでしょう、わたし共、平凡な力量のものは、全く傷つかずに、生きとおす無垢な強さをもち得ないにしろ傷痕を償う立派さはどうしても身につけなければなりません。下らぬ、あくせくと苦労で自分をひっかいては勿体ないわ、でもねえ、惜しいわ。本当に惜しいわ。悧巧さなんて、其丈では何と頼りないものでしょう。
七月二十九日
太郎の勉強がやっとすんで、この机は又わたし一人になりました。今は「柳の衣桁」にとりかかって居ります。アナトール・フランスの鋭い洞察は、いつも手ぎれいな機智めいた表現をとるために、その意義の重さをそのままに示さないと思ったりし乍ら、しかし、眼は折々南側にくっきり浮び出て来た山並を眺め、心の底では物思いにしずんで居ります。きのう書いた手紙はまだ机の上にありますが、この封筒がそちらに届くのはいつかしら、と先ず思います。わたしたちの間の玄関や通路は又昨夜いたずら鼠にちらかされました。今朝はわたしは経験者ですから、音響で、そら落すよと叱呼したのに国ポケント突立っていて煽りでヨタついたのよ。
あなたの御旅行は困難なうちにもいい折に当りました。わたしが其を知ったのは二十六七日頃で十日足らずのうちに大体まとめてここまでは来たのに、夕立雲にかち合ってしまって。来月五日頃に切符を入手する予定で居ります。ああ、神よ、その海渡さえ給えよ。
きょうは夏らしい日光になって、芝庭や松が芳しい匂いを立てて居りました。その日光と大気の中にあなたの毛布をよくひろげて乾します。今年は東京でも、ここでも洗濯に出せませんので。東京には毛布うけ合う洗濯やはないし、ここは、その店の辺がけさも、で迚も大切な毛布はあずけられませんから。檜葉《ひば》の枝と松の枝との間に竹竿をわたして、あなたの毛布が空気を吸っている彼方には安積山の山並がございます。雑草の花が毛布の下に咲いて居ります、山百合が自然に生えて、けさ二輪大きい白い花を開きました、暑い昼間の空気にその花は高く匂います、そちらにも百合の花は咲いて居りましょうか。匂いたかく、咲いて居るでしょうか、昼もかなしけと今年も咲くときがあるでしょうか。桔梗もこの庭の野生のは色も濃く姿も大きく美しいと思います、百合も精気にみちて開いて居ります、花やの花と何という違いでしょう。
そちらの風景の大さは想像されますが、何だか眺めていらっしゃる景色の細部がちっとも分らないこと。あたり前だけれど。そこいらの空気はどんな匂いがいたしますか? 東京から行くと、ここでさえ大気は生きている草木の芳しさでいっぱいです。松柏が多いのでなかなかいい匂いの土地です。そちらの窓から流れ込む空気には、きっと海と山との交り合った調子があるのでしょうね。清涼とおっしゃるような空気で、いやな虫もいなければ、しのぎいいことね。海に近い柔らかさは、千葉の江場土でおどろくように甘美でした。そちらの海はもっと雄大で勁いから、きっと空気の工合もちがうでしょう。流氷が大したものだそうですね。高い崖の下でうち合う流氷の音が、もし深夜にきこえたとしたら、夢も北極までひろがると申すものでしょう、北極でさえも現代では只恐ろしい白い土地ではないのですものね。
そう思うと、まだまだわたし達の旅行の方式は古風きわまるものだと痛感いたします。そして、何と一寸した障害に困難するでしょう。まだまだやっと自然条件をいくらか克服したという程度ねえ。
其でも余り悪口は云えないのよ、わたしの体質は航空上非常に不出来で、上空では悪性の脳貧血をおこします、五時間以上は駄目だし、其でさえピンチなのよ、貧血で死ぬのですって。だから、もし空の道が自在になったときどうしようと全くふざけでなく心配よ。しかしそうなれば又何とか対策も出来ると申すものでしょう。船と航空機は苦手です、地の生物キノコ風ね。
七月十日に出した地図や中華国語はつきましたろうか。それとも津軽の海へのおくりものとなったかしら。それに、わたしが書くいろんな話もどういう風に届くのでしょうね、魚どもには、こういう字はきっと余り美味ではないでしょうのにね。普通に出すより書留の方が何だかましのように思えますから、これはそうするわ。この辺ですと危険な音響の方向もはっきりしているし、空気の震動も単純で林町の壕で聴く地獄の中のようなこわさはありません。対策ありという危険感よ。十分気をつけますから、呉々もお大切に。涼しすぎますまいか、おなかは大丈夫? ペコの方は? では又。
七月三十日
きょうも汗の出る位の日になりました、午前中、爆風で塵のおちた部屋部屋の掃除して午食まで一寸一休みのところ。気もちよく南北の風が通って、机の上の螢草の葉をそよがせて居ります。正午のニュースが、声というよりも大空の皺めいた感じできこえています。
そちらのお天気も快晴? そして快く風が通って居りましょうか? 数行「柳の衣桁」をよみました。ローマ人は誇張の多い凡庸な国民であったということや、実利的で戦争もその点から行ったということや、ベルジュレ先生が、哀れな彼の室で弟子のルー君やナポリ学者と話す見解も極めて肯けます。そしてこれらの部分においては、バルザックよりも時代と頭とが進んで居り、洞察も正確です。アナトールの作品としてこの現代物語は大切なものだし、注意ぶかく読まるべきものなのね、それだのに、こんな半端な翻訳しか出なくて。さわがれるには智的すぎるという風な作品よ。スタンダールの態度は同じ超俗であっても趣味のきびしさ出たらめぎらい甘さぎらいだったと思います。アナトールのは趣味のよさにしろ洗煉《リファインメント》ね。洗煉というものはむずかしくて洗煉ずきの俗っぽさがいやというもう一段上の趣味の高さがあるから面白うございます。スタンダールには、この瀟洒排斥の勇魂がありました。芥川がアナトール好きでした、何か感じるわねえ。そして作品というものは面白いと思います。思索の上での同感は必ずしも作家への愛情とならず作品への愛着となりません。同感するということと愛好するということの違いは微妙ね、人間関係におけると同じに微妙です。ロマン・ローランの「魅せられた魂」はベルジュレ先生がルー君に話したような愚劣さへの抗議をアンネットという女主人が行動として示す点は歴史的に面
前へ
次へ
全26ページ中18ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング