の風呂の底がダメになりました。風呂材として杉の木を截りました。それを乾して風呂やにわたしました。風呂の釜はヤキいもの釜ですって。さかさにしてふくらんだ方を底にして、平和になったらひっくりかえしてイモをやく由(!)そこまで話をきいたのは去年でした。今もってフロのFの字もありません。林町にはボロ石炭があって、幸、風呂にはちょいちょい入り、それでもって居りました。こっちはその有様でうちの男女豪傑は、風呂はこの世にまれなりけり、という貌で笑っているわ。
 この風呂については島田のお母さんも仰天なさったことがあるらしいのよ、昔、信濃町[自注17]へ十日ほどおとまりになったとき。あの優しい咲枝さんがどうして風呂ばかりは立てないかと。ひどい丈夫の皮膚に特別ポンプがついているのかもしれないわ。
 余り体が痛く湯たんぷはないし、ふと考えてさっき太郎に井戸の水を運んでもらってタライに湯をとって脚湯いたしました。すこし循環が整うだろうと思って、案の定、その手当の程度にふさわしい効果はありました。脚はいくらか爽やかとなり、頭脳も活溌になったので、忽然として、この開成山南町なる溜池のガスについて反省いたしました。「やってみること」何でも。そこで思いついて市次郎という先代からの爺さまの家の渋湯に明日から入れてもらうことにし、三四日うちに元気になって東京へはせ戻り、さて網走りまで出発いたします。わたしは臂力が足りないし疲れているから、つい男をたのんで国男にいくらかは動いてほしいと思うのですが、この人はいつか申し上げたかしら、イギリスの紳士よ。実に泰然たるものです。腹が分らない。ぐるりが動いて来てそこに出た状況で最も自分に有利な方に動くという、粘着力百パーセントの人物です。面白いわね。その国男に、この二月――七月間は私はこまかい収支帳をつくらないでおしとおし「さぞ辛棒だろうけれど御免ね。入金はしれきっているのだしわたしの努力でとにかくもち出した必要品はその幾百倍なんだから」と真平御免を蒙りました。
 さて、明日から入る渋湯はたのしみです。「なじょった湯だべ」。どんな湯かしら。「きいたらうれしいけんじょ」きいたらうれしいけれど。けんじょう、という風な力点よ。
 太郎は空スーケーホーと申します。それでもこちら生れでないから発音が軽く澄んでいて、土着の人がきくと「ハイカラ」なんですって。そちらは却って標準語でしょう。女が暮すにも伝統がないから助かると思います。しかし離れやというような建築法は用いないでしょうから(防寒上)どんなところに住むのでしょうね。そちらのある入江から北西に二つほど入江を先へ行ったところに紋別下湧別というところがあって、そこに字何とかいうアイヌ語の部落があって、そこによにげの久一が、今は出世して居りますって。この久一という人は祖母の頃、前の畑を耕していた人です。納れなかったのね狭いカンプラ畑では。そこであっさり海をわたり、どんどん行ってそこの岸でとまったのね、そして今では「馬も立てているだべ」ということです。開成山から行っている人が多いのですって。思いがけないことねえ。わたしはその久一のところへ梅干をおみやげにもって行きます。北海道に梅干はないのですって。農家では生活出来ませんが、その辺に常呂とかいうところがあって、そこいらからゆく温泉があるらしいのよ。大変好奇心があります。九月中旬まではすこし山の中でもいられるでしょう。わたしの湯恋いをお察し下さいませ。
 よほど久しい前、室蘭や虻田辺からずっと新冠まで行ったりした頃、わたしはアイヌ語がすこしわかりました。今でもおそろしく細かい断片がのこって居ります。札幌のバチラー博士[自注18]がアイヌ語字典をつくりました。パール・バックの「戦える使徒」の父とはすこしちがったのね、対象も全然ちがうから当然ですけれども。ロンドンに戻れば気の毒な浦島の子であったこの老人はどうしたでしょう。
 袋のような口をして黒い髭《ひげ》が二本黒子から生えていた夫人はその頃もう大変な年で、何でも銀でこしらえたものが大好きでした。父が博覧会の用事で行く毎にボンボン入れや小箱をあげていつもホクホクしていました。このお婆さんが、博士夫人になる前、何とかシャイアの淑女だったとき描いたという水彩画がありました。新しい何かのものをもって札幌に来た二人は尊敬され乍ら、お祈りをしてイギリス生粋の酸っぱいルーバープに牛乳かけてたべているうちに、日本はこの人々を消耗して、からをイギリスに戻したのでしょう。支那と日本とは西欧に対して独特ね。
 ふと気づいて書くのをやめ検温しました。疲労熱が出ていたわ。きのうもでした、(大丈夫、じき直りますから)すこし熱っぽいと連想が飛躍して、雑談以外には面白さもない文章が出来ますね、滑走風スピードになって。滑走はやめて夕飯迄横になります。又あしたね。
 七月二十七日 十四日に中絶してからきょうまでにもう十三日経ちました。
 十四日から十七八日頃まですっかりへたばって殆ど床について居りました。去年二月からの疲れが出たのです。体じゅうの筋肉が痛んで寝床に横になっているのも苦しいというのは生れてはじめての経験でした。松山[自注19]にいらした頃、体がひどく痛むことがおありになったのじゃなかったの? お母さんからそんなお話を伺ったように思います。臥て、転々反側しながら、こんな風に痛かったのだろうと思いました。なかなか楽でないものねえ。さて、市次郎の渋湯には一度入ったきり。たしかにあたたまってようございます。ここの家は、何しろ開成山の家の留守番をしていた間にセイロウまで自分の家へ運んだという連中だもんだから封鎖的で風呂も入りに行きにくいわ妙なものね、脛にきず で妙にするのね、自分から。
 十九日に急に切符が手に入ったので無理でしたが、帰京、二十四日の夜行で戻りました。もう生活の根拠のないところへ戻るのはこの頃何と不便で且つ悲しいでしょう。自分の米を背負って行くのだけれども、わたしはたっぷり背負えないから、つまりは米に追い立てられてしまうのよ。全く一人では能率も上らないし、私の健康程度では一人で東京へ往復したりする位なら田舎へ行かないがまし位よ、すこし極言すれば。十九日に行くとき郡山にはり出しが出ていて、北海道は売らないしいつとも分らないと出て居りました。二十四日に東京では駄目でしたが、二十五日の朝ついて訊いたら一日三枚だけ統制官の許可で売る由。至急手配いたしました。来月早々にこちらを立ちます。この隙にね、すこし西へ行って居りますから。この間、駄目になったとき、わたしは大変苦しい気持でした。宙に浮いてしまったような気もちで。どうぞどうぞわかって頂戴。わたしはそこから島田かどちらかにしか自分の暮すところを感じられないのよ。ここはわたしに落付けない生活ぶりです。早く行ってしまいたいわ。そして、普通の場合とこういう時節とは何とおそろしい異いでしょう。わたしはこれ迄随分旅行したし、その度にいろんな荷物を林町にあずけました。その間に失ったものはありましたが大体保管されて居りました。こんどはまるで異うのよ、わたしがまとめ切れず、運び切れず、おいて来たものはすべて失われるものとなりました。自分の体力が足りなくておしいものも置いて来る気持は独特ね、わたしの子供の時代からの原稿なんかもそのままよ、灰になってしまうのよ。大事な去年頃の書類[自注20]だけはどうやら移動可能にいたしましたが、其とても全部は全く不可能でした。世界中の人々が、こういう思いをして居るわけです、国外へ急に出なければならなかった作家たちは、自分の蔵書を失う丈でも苦痛でしたろう。この頃生活上の訓練について一層思います。わたし位のものでも普通の婦人よりは遙に生活の突変になれ、突然の無一物に馴れているわけですが、どこかに在る、というのと灰になるというのとではちがうものねえ。人間がいよいよ精髄的骨格をつよめないと、失ったものが、其人にとってプラスとならずマイナスとなってしまうのね。物の不確さがまざまざとすると、わたしたちは、これから書くもの丈がリアルな存在という気がして、猶更真面目になります。
 きょうは、こちらも夏らしくなりました。そちらはどうでしょう。夏のないような夏を過していらっしゃるのではないかしらと思って居ります。緑郎はカンサスの何とか湖のキャンプへドイツにいた大使たち、近衛秀麿、スワネジ子たちと行ったようです。従弟で、フランスへ交換学生になって行っていたのはグルノーブル(スタンダールの生れた町)にいてシベリアを経て帰りました。緑郎について、生活ぶりについて、いつか私が心配して居りましたろう? やはり其処がピンぼけで、くっついてろくなことはなかったわけです。そういう気分でそういう目に遭うと、人間はなかなかましなものになっては抜け出ませんからね、惜しいことだわ。それにつけ、緑郎の細君が、ああいう生れの人だったことを残念に思います。社交的な一種の環境を外側から見る力はないでしょうからね。揉まれて妙なコスモポリタンが出来上っては人間としてローズものです。残留したということはマイナスに転じました。どうなって帰るかということには心がかりがあります。
 卯女の父さんは応召して長野の方へ行きました。卯女と母さんとは一本田[自注21]の田舎の家へ行くそうです。直さん[自注22]の細君が久しい病気の後死なれました。柳瀬さん[自注23]という画家が甲府へ疎開準備中新宿との往復の間、駅で戦災死されました。実に気の毒です。鷺の宮は相変らず。近所へ戸塚の母[自注24]と子が越して来ています。どちらも昨今は収入がないから大変でしょう。戸塚の母さんは子供たちと丈生活するようになって大分さっぱりしましたが、この七年ほどの間、生活の裏面を黙って呑みこんで作家的押し出し丈を俗的に押して来ているということのため、人間が平俗にしっかりしてキツくなって何とも云えない美しい天真さを失ってしまったことは見ていて苦しゅうございます。そしてこのことは、芸術家として代うるもののない大切な何かを失ってしまったことです。芸術が天寵であり人間の誇りである以上、芸術家は天のよみする間抜けさ、一途さをもって、正直頓馬に美しく生きなければなりません。それは叡智に充ちるということとは矛盾いたしませんものね。

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[自注17]信濃町――一九三三年頃、百合子が弟夫婦と暮していた東京、四谷区信濃町の家。
[自注18]バチラー博士――一九一八年、百合子十九歳のとき、アイヌ人に取材した小説「風に乗って来るコロポックル」を執筆した時、滞在したことのある英国人宣教師。
[自注19]松山――顕治は松山高等学校に学んだ。
[自注20]大事な去年頃の書類――顕治公判関係の書類。
[自注21]一本田――中野重治の故郷、福井県一本田。
[自注22]直さん――徳永直。
[自注23]柳瀬さん――柳瀬正夢。
[自注24]戸塚の母――佐多稲子。
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 七月三十日 〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書)〕

 七月二十八日 晴 爽やかな日、縁側に、荷づくりする物を干しています。昨夜は九時すぎから、二時間おき位にボーで起きました。南の山の方に光りも見ました。
 きょうは爽やかな日となりました、暑いけれどもここらしくからりとした風が吹わたって。
 上段の卓の一方に私がこれをかいて居り、左手に太郎が頭をかいたり唸ったりし乍ら、宿題をやって居ります。空の模様のため学校は休みで、宿題が出ていたのを、急にやるので、大さわぎなのよ。うちには、机一つ勉強出来るようにはなっていないのだから、太郎のフラフラも無理なしですが。この子は数学の方が国語よりすきだって。本を並べて見ると、成程と思います、わたしだって健全な頭をもつ子供だったらやはり数学の方が面白いわ。
 この頃の子は五年で、立体なんかもやるのね。もし欠点をいうと、原理を知らなくて、キカイ的に計算法だけ(形式として)うのみにしているから、本式の数学勉強をはじ
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