く世間には自分にこういう才能があるかしら、わたしにやれる丈才能があるかしらと心配したり調べたりしてばかりいる人があるけれども、才能なんて、決してそういうものではない。どんな目に会っても決してやめないでやってゆく勇気が才能だっておっしゃった。本当にそう思うって申しました」というの。成程と思ってね、わたしはいつ、どこでどんな人にどういう話をしたか全然覚えて居りません。しかしそうして覚えていて何かの鼓舞としている人があるということは感動的です。
「でも、その人は自分流に解釈しているのね」とわたしは補足しました。「勇気が即ち才能という風には云えないわ、わたしは多分どんなに苦しくてもその事をやらずにいられなくてついやって行く、そういう内からの力みたいな押えられない力がもしいうならば才能だと思う」と云ったのでしょう。だってね、そうでしょう、勇気とそういう願望とは別よ。願望があるからこそ勇気があるという結果にはなるだろうが「ああそう、そうおっしゃったの、わかるようだわ」「才能なんか本人がとやかく心配しなくていいのよ、あるものならば必ず在って何とか動き出すものだから。知らず知らずよ。その位のものでなければ謂わば育ちませんよ」つけ加えて「その方、誰かしらないけれども、個人的にでなく芸術の理解という点から云うと、お気の毒ね、才能は勇気なりと要約して覚えているのだけのところという点があるわけでしょう? だからね」「全くねえ」その娘さんがお母さんと暮していて、亡父の財産が、満州にあって、あっちで後見役をしている三十何歳かの叔父さんが、満州こそ安全と主張するため、新京へ帰ったのは残念至極です。そういう話、そんな事があったので、ブリュラールのこの文句はああやっぱりこう思うのねと面白く思えました。
 男の人たちは自分の才能について、大抵の人が一とおり考えるらしいのね、人生というものを見わたしかかった年になると。それに比べて多くの女のひとたちはその問題以前のままで人生に送りこまれてしまいます。しかし、一応考える男の人たちにしろ、才能というものと処世ということとを何と顛倒し混同して考えているでしょう。真の才能というものは、こわいものだわ。持ち主をして其に服従せしめる一つの力であり、一つの人生をグイグイと引っぱってゆく強力な人間磁気です。この磁力の歴史的興味を知らなかった過去の天才たちは多く「不遇な」天才として自分自身を感じたりしたのね。ピエール・キュリーとマリとはその磁力にみちた人々であり互にひき合う魅力を満喫した人々でありそれは普通に云われる男女の間の魅力をはるかにしのぐ魅力、かけがえなきもの天と地とのようなものだったと思います。だからマリはピエールが馬車に轢かれた後は義務の感じだけで努力したというのもよくわかります、ね。
 ああ、わたしはこんなに話し対手がないのよ。こうして、何ぞというと、この隅っこへひっついてしまうぐらい。炉ばたでいろいろ喋っていますが、いつも買物の話、荷物の話、汽車の話。わたしは一人で、もう何ヵ月もそんなことばかり考えて来たのだからもう結構よ。本当に人間の話題[#「人間の話題」に傍点]が菰包みばかりになってしまうというのは、何たることでしょう。この状態はもう今月一杯で終られなければなりません。ここの人々は百喋って一つのコモ包を始末するという風だから猶更わたしは飽きたのね。一人でいれば退屈しないのに。
 わたしはここへ来たら極めてストイックに自分の生活プランを立て其を実行しなければなりません、どれ丈手伝い、どれ丈勉強するかということをはっきりさせて。わたしはこういうリズムのない万年休日のダラダラ繁忙は辛棒し得ません。大の男が、何を考えているか分らない眼をして炉辺に一日いるのを見てもいられません。
 わたしの人生はゴクゴクむせんで流れて居ります。胸のしめられるような思いで。ですからね、大いに智力を揮って、その熱い流れを、生産的な水源、発電所に作らなければね。
 こんな生活の中で折角のわたしが何となく気むずかしく鬱屈したユリに化してはたまりませんものね。
 ブリュラールはね、今五七頁のところです。お祖父さんが布地屋の倅に本をかしてやりこの利溌でない本ずきが、あとで継母になったマダム・ボレルという女に「マダム正直者の言値は一つしかありません」と云って、かけ引をする女の前から布をしまってしまったというところよ。可哀そうなムーニエね、きっとこのマダムは継母になったあと度々これを父親に話したにきまっていてよ「ムーニエったら」と。そして親父の遺言から何フランかをへずらしたのよ。(バルザックによれば)

[#ここから2字下げ]
[自注15]アキ子――寺島あき子。
[#ここで字下げ終わり]

 六月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(国立公園小豆島の坂手港棧橋及洞雲山全景(1/3)、碁石山全景(2/3)、雪の志賀高原(3/3)の写真絵はがき)〕

 六月二十三日          1/3
 十九日に開成山を三人づれで立ち(国、わたし、瀧川)わたしは久喜の友人のところへまわりました。十五日にそこまで成城から行った荷物は、もう発送されていて、余り調子よく運んだのでびっくりいたしました。二十一日にかえって来ました。そしたらそちらからの世帯一切がついていて、水色花瓶も無事頂きました。わたしのは一まわり小さくて花がひわ色でした。あれは白バラのつもりですって。

 六月二十三日         (2/3)
 お手紙をありがとう。この頃のお手紙一通は妙なよみかたをするのよ、算術をやって。全体で何字あるのかしら。先ずそう思うの。それからそれを三十でわります。すると一日にどの位宛たより頂いている割かしらと。配給も徹底するとそうなります。きのうから右腕が痛み、メリケンコを酢でこねた名倉の薬をはりつけてどうやらこれが書けます。国は丸の内です。

 六月二十三日         (3/3)
 こんなエハガキはみんなそちらからの頂戴ものよ。もう忘れていらっしゃる位古いストック品でしょう。来月一日は日曜日ですね。二日におめにかかって三日に立ちますからカンベンね。
 多分そうなるでしょう。寿は追分に行く由です。本月中に何とかするつもりのようです。わたしは仰せかしこみともかく開成山へ参ります。そして東北巡行をやっていろいろ研究して見ましょう。どこもなかなか人ごみらしい風です。

 七月七日 〔北海道網走町網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(開成山大神宮(※[#ローマ数字1、1−13−21])、開成山大神宮北参道(※[#ローマ数字2、1−13−22])の写真絵はがき)〕

(※[#ローマ数字1、1−13−21]) 七月七日、きょうは又開成山から書いて居ります。六月十六日にここから巣鴨へ書いたのが戻って来てそちらのことがわかりました。急にお立ちになりましたね。道中は汽車もあの通りだしさぞお疲れになったろうとお察しいたします。シャツが一寸のことでゆきちがってしまって御免なさい。わたしもやっと安心して林町を引上げました。十二三日ごろもう一度行って最後の片づけをいたし、二十日ごろ立ってそちらに参ります。割合準備して落付くつもりでゆきます。

(※[#ローマ数字2、1−13−22]) 七月七日、六月十六日のは戻りましたが、そのあと書いた手紙やエハガキはどうやらそちらへ行ったようね、着きましたろうか。久々ぶりの旅行でさぞお疲れでしょう。夜の汽車のさわぎ、あつい汽車の中、夜が明けかかって青々とした山野が見えるときの御気分、いろいろ思いやりながら五日の夜汽車にのって戻りました。青森行は大変ね、北の方ははじめてでいらっしゃるから風景も印象的でしたろう。まだアカシヤの花は咲いて居りますか。海も久しぶりの眺めでしたろう。そちらの景色はパセティックなところがあるでしょう?

 七月八日 〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書)〕

 ここ二三日こちらはいくらか秋めいた空気です。空に雲が多く複雑に重っているのに山はくっきりと藍色に浮び、空の色は実にいいゴスです。ここでこの位ならば、その辺はもう秋が来ているのかしらと思います。尤も北海道は八月で夏は終りましょうけれど。わたしは、今、一寸した気候の変化についても、気《け》ざやなりけりという風に敏感よ。そして、秋の来ないうちに、そちらに落付こうとしきりに思って居ります。
 この前(六月十五日ごろだったかしら。それから十九日迄)こちらに来たときは、心痛一杯で気をもんでいて、ここの生活の空気にもなじめず気持が切のうございました。早く片づけなくては私の今後一二年間の生活に影響するような用が国のズルズルのためたまっていたので。そういうとき書いた手紙が、丁度そちらへの初便りとなってしまったのねえ。様々に印象ぶかい旅をなすって、やれとおちついて今のわたしのように風のたたずまいにも感じが動かされるようなとき、あんな詰らないくしゃくしゃ手紙御目にかけてわるかったことね。御免下さい。あの時は、ああやって書かなくては気が持たなかったのよ。
 国は十九日から七月三日迄滞京。いろいろの重要な用事を順調に果すことが出来ました。いい工合に、その間は東京がすこしひまで壕へ入ることもなかったので、本当に助りました。これでわたしの生活の事務的面が整理され、もうそちらへ行けるようになった次第です。一年か一年半は、気をもまないで休養と勉強とで暮せそうです。往復は不可能ですしここに暮すことはあながちよくもないから、そちらのどこかで暮します、その町か、すこし奥へ入ったところかどこか。面倒でないところで。保護観察所が、札幌の同じ役所へ紹介をくれました。先ずそこへ行って相談してからそちらに行く方がいいのですって。つまらない紛糾をさけるために。地方は人が尠いから目に立つからそうしないといけない由、その通りにいたしましょう。今は特別なときですから。そしてわたしは誰にも触られずに単純に暮したいから。そちらの様子は皆目存じませんからね。わたしとしても参考が必要です。鈴木義男弁護士に札幌の斎藤忠雄という弁護士に紹介を貰いました。この人は土着の人で信望のあつい物わかりよい人の由、相談にのって貰える人のあるのは心づようございます。わたしは、三つ迄札幌の農大の中で育ったし二十代には永く逗留してあちこち旅行もし宮部金吾さんや総長だった佐藤さんとおなじみでしたが、この頃の様子はすっかり変ったし自分の条件も変化して居りますから、やっぱり話のわかりいい筋の紹介が入用でしょう。
 どこに暮すのか、珍しく又茫漠とした感じです。でも北海道は、いいわ。結局は一番ようございましょう。暮しいいでしょう。スケールの大きい生活だけに暮しいいと思います。
 そちらはわたしの覚えではからりとして虫の少いところですが、いかが? 痒いことの少い夏をお過しになれたらと思います。皮膚もサラリとした感じでしょう? そして、又今は白夜でしょうか、もう過ぎましたろうか、それともその辺は違うかしら。わたしたちの生活図譜も時様々ところ様々にくりひろげられて、風景の多様さから云ってもなかなか大したものねえ。大きい歴史の時期に殆ど壮大な風景の中で過すということは。何か内部的な調和さえあります。
 わたしたちの眉宇はかくていよいよ晴れやかなりと申せます。
 実際今年に入ってはじめて安心とはこういうものか、と思うようなこころもちよ。どんなに安心したでしょう。
 七月二日には巣鴨へ行こうと計画して居りました。二十八日かに、開成山から使のついでに返送されて来た手紙(十六日に出した方)が来ました。はじめ切手不足だったのかしらと何心なく見ていたらそちらに移送とあるでしょう。まアとぽけんといたしました。二日に、二日にと思って心の首をのばしていたでしょう、ですからのめるような風で。気がぬけたようになりましたが一晩経ったら、よかったという心もちがはっきりして来ました。中途半端でないのがいいのでしょうと思ってね。さて、それなら自分も行くのだが、北海道、北
前へ 次へ
全26ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング