れていると思います。そういう一応のもの[#「一応のもの」に傍点]のよりどころない口約束みたような本質、一定の条件の限りでの礼儀《エティケット》のようなものが、皆たががはずれて、ひどい有様ね。親切[#「親切」に傍点]というこころがいつしか本人も知らないうちに、利用価値にのりうつっていたり。こわいことね。信義というようなもののめずらしさ。
 島田へは、行かないときめたときおみやげ送っておきました、母上と友ちゃん、草履(いいのよ、なかなか)達ちゃんへはしゃれた紙入れ。子供たちに積木と本。野原へは、二人に草履。冨美子は卒業ですから、本。役に立ちそうなのを集め八冊ばかり。かなりのものよ。岩本には薬の世話になるから先生に紙入れ(いかにも年輩の校長先生向なの)奥さんに帯あげ。上の娘帯どめ、下の娘机の上の飾り、男の子切りぬいて作るグライダー、という次第です。来年どうなるか分らないし、私は益※[#二の字点、1−2−22]貧乏でしょうから、ことしは、おみやげをけちけちしないで準備いたしました。小包あけて、きっと不平な人は居りますまい。
 この頃鉄道便をうけつけませんから誰彼なしに小包つくるため、ユリお得意の小包作りに紙がありません、売らないのよ。咲は紙やのかみさんに、局が受つけ個数制限していて朝でもう〆切りですよ、と云われたそうですが、さほどではないようです、但小さい局のしかしらないけれども。チッキが番号札もらうのに徹夜の由。うちの連中、あさって行くのにどうするのでしょうね、又誰か夜どおしさせられるのかもしれず、ひどいごたつきでしょう。どっちみち二十五日におめにかかります。

 四月七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 四月七日
 ああ、しばらく。本当にしばらく。先月の二十日すぎ手紙をかき、あれから毎日落付いて書きたいと思いながら時がありませんでした。こんなことは、マア私たちの生活がはじまって初めてのことね。今来客と一緒に出て、ちり紙の配給を坂下までとりに行って、かえりにフリージアの花買っていそいで二階にあがって来たところ。もう四時半まで一時間半ほどは何があってもここは動かないつもりです。(と書いたでしょう? ところがその間に八百やとトーフと二度よ。)
 さて、咲枝子供たち出かけたこと(二十五日)は申しあげましたとおり。
 二十六日になって、何となくしずかだし頭の上がカラリとして、ふと気がついて見たら、咲がどうしてあんなに遑《あわ》ててけとばすように、今この勢という風に行ってしまったかが忽然として会得されました。一種の逃避だったのね。
 三十一日に手つだいのひとも居なくなり、わたしと国男。国は三十一日に汽車の都合で帰ったが、その晩は私が留守だったというので友人宅へとまり二日にかえり、三、四、五とよそへ泊って昨夜久しぶりで在宅。私は、丁度こちらへ引越したり病気したりした間に、配給の様子が分らなくなっていたから、急に全部一人でやって大疲れです。おとなりの人たちがよく助けて下さるのでやれますが。でもこう思っているのよ、どこで一人で暮したりするにしろ、やはり同じくパタパタで、しかも手助けしてくれる人もないのでしょうから、これが今の市民生活の実際だと思ってね。朝七時におき御飯のことして、それから国がダラリダラリと仕度して十時すぎになってやっと出かけます。今日は、そしたら手紙とたのしみにしているところへペンさんね、あれが来て、やはりきいてもらいたい愚痴。でもそう云って笑いました。この頃は二円のクリームに三円八十銭の不用な香水をつけて買わされるのだから、ひとの境遇にも同じようなことが起って、わたしだって巣鴨へ便利で市内で、電話があって、余り危険でないという住場所の必要のために、此だけの辛棒しているのだから、あなたもそう思いなさい、と。そんなものね。
 余りむしゃくしゃしてたまらないと、気つけ薬をかぐように、あの万葉のうたを思い出します。それは新鮮で、いい匂いがして、生々としたそよぎを送ります。自分に向って、かざらしの小百合よ、と思うのよ、いまのまさかに、どんな顔して気持でいるのかよと思うのよ。
 この三四ヵ月の間の私の手紙を並べて思いおこしてみると、世相と共にこういう難破船の崩れてゆく速力のはやさがまざまざでしょうと思います。去年の秋ごろ、先ず細君という積荷の繩がきかなくなって、甲板の上をズーズー、ズーズーと大すべりにすべり出し、寿江子というものが到頭船から落ち、最後に、私が、しっかり荷ごしらえしているために辷り出しはしない代り、船の大ゆれの最後にのこった形です。
 誰も深くその経過を省みず、考えず、ただ心理的に行動して、疎開とかいろんな名目で云われ、とりつくろわれていますが、本質はこういう地盤と条件の生活の急速な消滅の途です。処置のようだが実はその域を越して居ります。
 そういう空気の中ですが、けさは小さい畑にホーレン草の種子をまきました。あしたの朝は不断草というのを蒔きます、朝の落付かない時間の仕事にいいし。
 この頃は省線小田急なども時間で切符制限して居り午前六―九。午後四―七は通勤人でなくては駄目。汽車も回数券はなくなり、定期も通勤証明です。千葉の往復も大変になります。
 この次の手紙は程なく書き、そして生活にいくらか上手になったことのわかるのを書きたいと思って居ります。

 四月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 四月八日
 もう梅雨のような雨でした。大笑いよ、わたしが朝飯前に畑へ種子を蒔いたりしたから忽ちだ、と。けれ共いい工合にこの位の雨であったら蒔いた種子が流れ切ってもしまいますまい。あんまり黒煙濛々たる手紙さしあげたから、すぐつづけて、マア其なりにどうやらすこしずつ手に入って、台所で煮物の番をしながら本をよむ気にもなって来たことを御報告しなければ相すまないと思いまして。
 台所用の本(!)はトルストイとドストイェフスキーの細君たちのメモアールを集めたものです。やっぱり夫婦はこういうものなのね、トルストイの夫人はギクシャクなりに文章や考えの構えかたにスケールがあって、跛ながら旦那さんの風をついていますし、ドストイェフスキーの細君はひどく素直で、わたしわたしというところがなくて、書きかたは御亭主の小説の成功した部分のように一本の糸の味のあるうねり「貧しき人々」などの味に通じたところがあります。トルストイの細君はおそろしい位良人の内部を理解して居りません。こわい、熱烈な、大きいとさかの牝鶏よ、どっさりの子供を翼の下に入れている意識で牡鶏に向ってわめくところがあります、ドストイェフスキーの細君は、つつましいと表現され得る女のひとであるらしい様です。でも、今、一八七二年のこと、という章をよんで、胸うたれ、これを書きたくなりました。この年はドストイェフスキーは「悪霊」を書き終り、それによって彼のスラブ主義を完成したのですが、『市民』という月刊雑誌を或る公爵の出資で出しました。それの仲間があの有名な日曜日を仕組んだポベドノスツェフだったのですって。それを細君は、こういう人達と働くことはドストイェフスキーにとっても魅力のあることでした、と何の罪なく書いて居ります。ドストイェフスキーという人間は、人生に迷って不幸から脱却したいとき、結婚するか賭博者になるかパレスチナへゆくか三つに一つと考えたのだそうです。そして、一つを選びその細君と結婚したのだけれども、最後の「悪霊」は実に意味深長な作品であったと沁々思います、そういう点にふれての彼の伝記はホンヤクされているものではありません。トルストイは矛盾だらけにしろ、そういう仕事はきらった男でした。その一つの点だけでも彼の人間はしゃんとしていたと云えるでしょう。
 きょうは、もう十日(月)です。きのうは国が家にいて、台所の天井の窓のガラスがこわれていたのを直したり、カマドの灰かきをしたりしてくれました。ガラスがこわれたところから雨がバシャバシャおちて、タライをおいても洪水でした、下駄ばきで台所やって居たから直って全くさっぱりしました。
 三十一日にひとりになってから、十日経ちました。段々手順が分って来て、大体朝七時半ごろから十二時すぎ迄で一かたつけて午後は四時間ほど、自分の時間にしようとしてやって居ります。家のことを四年しなかったうちに全然様子が変ってしまいましたから、今又台所やるのは私に或はいいことでしょう。配給の様子も一つ一つはっきり分るし、不如意な中でやりかたも覚え、これから更に不便な生活をしなければならないためのケイコに有益です。台所も何となし自分の息がかかるとよくなって、今棚の上のコップには可愛い「ぼけ」の枝がさしてあります、台所をさっぱりと整った優しいところにするのは大切ね、女のひとの一生は一日少くとも十時間は台所で暮さなくてはならないのですもの、お目にかけられないところとする日本の習慣は間違っていると思います。そこへ友達も来て、何か働いていながら話もし、本でもよんでくれていいところだと、どんなにいいでしょう。そして女の馬鹿になるのが防げます、湿っぽい、面白さのないところで一人でポシャポシャやっているとき旦那は火鉢に当って談論風発で、十年経つとあわれこれが女房かとなってしまうのね。御用ききというものが来ないのは至極ようございます、今の暮しは一日に七八人のお客ということもないし、疲れすぎないコツを会得して、やれそうです。眠り工合がちがって深く深く眠ります。きのうは傘さして菜っぱをとりに湯島一丁目まで行ったら、私なんか力のないこと、一貫五百匁ほどの包みでフーフーで咳が出る位(ドキドキするから)でした。自転車にのれたらと思います、でも目が不確かで速力が不安なうちは駄目ね。
 あなたが家事衛生のこと、おっしゃっていましたが、こんな実習[#「実習」に傍点]がはじまろうとは思って居りませんでしたね、お互様に。こうやって見《いて》てつくづく自分もいろいろの生活で、こなせるようになって来ていると感じ直します、つまり苦労して来たのだな、と思いかえすようなところがあります。そしてそれは自分の実力ということで感じられるのはうれしいと思います、女中がいない、忽ち上ずってしまう、という生活力では情けないわけですから。でも心もちは意地わるいものね、こんな暮しがはじまると、何と勉強したいでしょう、じっくり腰をおちつけて物もよみたいと思う気が切々です。それが困るが、大体からいうと、人的交渉から苦しい刺戟を絶えず得ているよりも、この方が体のため[#「体のため」に傍点]には悪くないかもしれないと考えます、体がこの位くたびれると机に向って根のつめる仕事は出来ません、読書にしても、これが永続しては、やはり私として本末の顛倒した生活ということになりましょう。国の方は防衛局の仕事がなくなると同時に事務所もとじる計画らしいし、仕事のなくなるのは防火壁をこれからこしらえたってはじまらないという時期が来ればすぐなのだし、どこもかしこもそんな風な日暮しですね。
 寿は長者町に落付く由。それがいいでしょう、わたしがこんな暮しかたをするようになったら、長者町に落付く決心をして、なかなかこまかく考えを運んでいると思いますが、私として、当てにしていないのだから、結局落付いてくれる方が安心です。姉のこころ妹知らず式のところもあって。わたしは一家の中で殆ど術策を弄さない唯一の人間よ、生活の運びで。私のよろこび、わたしの苦痛、わたしの貧乏、それは天下御免で大っぴらで、弄すべき術策を必要といたしません。それは今日にあって大きい幸福です、自分の性根をこの間《カン》に腐らせないでゆける道ですから。Sが人相が変り悲しゅうございます。抜けめないところばかり出ている顔して歩いていて、往来で会って、その人と思えないようでした。ダブつき条件でだけ出来ている鷹揚さ、ひろがりなどというものは、何と急速にはげてしまうでしょう。気くばりと抜け目なさだけの顔してむこうから歩いて来るSを見ると、胸がいっぱいです。あのひと鏡もってるのかしら。人は折々
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