かいものをたべているんだもの、わたしはそういうのは楽でないのですから。よかったわ、もうこの次の第三次の本引越しについてはもうわたしも御免を蒙ります、二度のことでわたしの分けてやれるものは皆わけてしまいましたしね。きのうは行きたくなくて、きょうも疲れがありますが、でも本当によかったわ。やさしさ、親切は心の活々とした、少くとも想像力のある人間でなくてはもてないわ。思いやりなんて、わが身の痛さではないのですものね。
川越の先の部屋を二十日すぎというから多分木曜頃見にゆきます。そして、又こちらへすこしうつしておいて、それからやはり余り予定狂わさずに島田へ行ってしまいましょう。五月頃東京にいないとこまることになるかもしれないから(御託宣めいているかしら)うちへ子供の洋裁や私のもんぺ縫いに来てくれる洋絵勉強の娘さんが、倉敷の大原コレクションを見たがっているし、わたしはまだ一度も見たことがないから、行きに倉敷でおりて、それを見がてら少し休み、あとは近いから娘さんはそこから戻り私はひとりでゆくということにいたしましょう、いい都合でしょう? おべん当二度分もってね、よく研究してすいた汽車を選んで。荷物を少くしてね。かえりは一人なら、山陰をまわった方がこまないからと思って居ります、東海道ではこの節はビルマから一直線だなんていう勢ですもの、こむわけよ。多賀子一緒になど思ったけれど、ここの家で気がねしたって無意味ですし、其に時期もわるく、やはりかえりはひとりでしょう。さもなければ一寸送ってもらうのだが、その一寸が一寸でなくて。マア、それはそのときのこととしてやはり三月の二十日までに立ちましょう、お手紙のついでによく云ってあげておいて下さいまし。
ものがなくて、お土産が思うようにととのわずわたしは気にしていること。見かけは大した変りないが、実力は大分まだ低いから、半病人のつもりで見ていて下さるよう、眼が十分でない[自注6]ことなど。
今度はこれまでとちがって小さい子が二人いて、どうしてもお守りが要ります。体が十分でないと子供の守は疲労ひどく、抱くという何でもないこともこたえるのよ。自分でうまく調節いたしますが、そのことに直接ふれないで、一般的に半病人ということを憶えていて下さるようお願いいたします。自分からも申しますが、わたしがいて、お母さんだけによろしくと申してもいられないというわけです。マア、お母さんわたしが、というのが自然のこころで、それでやはり参るのは参るから。どうぞね、目白の先生も、途中のゴタゴタとこの点だけよ、いく分どうかというのは。でもこれで二ヵ月のばして、わたしはいくらも丈夫になれません、ここまでになったのもマアいい方なのだもの。来年やもっと先が当にならないからきめてしまいましょうね。
ここの家を処分して郊外にうつろうという案があります。咲、私大体皆のりきです。この家の非能率性はこの頃もう殺人的パニック的よ、こころもちに甚大に及ぼして来ています。国府津へ行って、こっち留守番暮しというのがはじめの案でしたが、国府津は東海道線に沿っていて、何しろ前が本街道ですから、パンパチパチが迫って、あの街道を日夜全隊進め、伏せなんかとなったらもうもちません、そういう地点に、女子供だけ目だつ別荘にいるなどとは一つの安全性もないことです。この際この家を処分するのは、ここの人たちにとって又とない好機です。すこし荷厄介を負っているところはどこも同じ問題よ。
うちの通りの向側に市島という越後の大地主が、殿様暮ししていたのが、いつの間にやら水兵の出入りするところとなっている有様です。方丈記というのが戦国時代の文学であるのがよく分りますね、一つの家の変転だけ[#「家の変転だけ」に「建物としての用途」の注記]語っても。その市島の家は、もと松平の殿様のお休処で、一面の草原に白梅の林で、タンポポが咲くのを、小さい私たちが、からたちの間から手を入れて採ったものよ。高村光太郎は本でふところをふくらまして、小倉の袴にハンティングでその辺を逍遙していたものです。林町も変ったことね、そして今この通りでたった三軒ほどのこった古くからのこの家が又何とか変ってしまうと、全く昔日のおもかげは失われます。そして、この通りを占めるのは、何かの形に変った金の力だけというものね。
郊外へ家を見つけるについて、咲と私は、私も一緒と考えていますが、実際になるとどうなるでしょうね、タンゲイすべからずです。居る場所のない家しかないという工合かもしれないわね。それなら其のときのことと思って居ります。
すべてのものが、日々の目にもとまらないような変化の中で、何と深く大きく渦巻き変ってゆくでしょう、決して二度と戻りっこない変りかたをしつつあります。
セザンヌという画家は、人物を描くときなんか、椅子にくくりつけんばかりにして動くのをいやがったのですって、モデルが。あのひとの絵を見ると、しかし実に絵は動いているわ。ドガは描かれたものがそのものとして動いているが、セザンヌのは、画家の目、見かた、制作意慾が熾烈で、精神が音をたてて居ります。こっちからこれだけぶっつかるからには対象がひょろついていられてはたまりますまい。対象につよく、直角にぶつかっています。古典よんでいて、対象へぶつかり、きりこむこのまともさを今更痛感し、夜枕の上で考えていたら、セザンヌがはっとわかったのよ。むかしの人の禅機と名づけたところです。(思いつめよ、というのは、そこまで追いこんで、直観的に飛躍せよということなのですが、人物の内容が時とともに充実しなくては飛躍もヤユね)セザンヌの生きていた時代にはそうして対象を金しばりに出来たけれど、そして、そういう対象を描いていられたが、今どうでしょう、とくに作家として。どこで、何を、どう金しばりに出来るでしょう? おどろくほど沸りかえり流れ走るものを、その現象なりに描き出し、それが、現象[#「現象」に傍点]であることを芸術としてうなずけるほど、一本の筋金を入れるのは何の力でしょうか、ここが実に面白いわ、ね。
十三日の手紙で、科学の精神のこと云って居りますが、ここと結びつくのよ。こちらの洞察、現象の意味、有機性、そういうものに対する芸術家の力量だけが、現実を、それがあるようにかけるのでしょう、だから面白いわね、勉強に限りなしというよろこびを覚えます。ストック品などでは役には立たないのよ。用心ぶかく、軽井沢辺で、芋でもかこうように作品をかこって繁殖させていたところで、芋は遂に芋よ。だってそれは芋が種なんですもの。家というものは、藤村が或程度かきましたが、又新たな面からのテーマです。ああいう「家」のように伝統の守りとしての継続の型ではなく、それが変り、くずれて、新たなものになってゆく過程で。では明日ね。
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[自注6]眼が十分でない――一九四二年の夏、巣鴨拘置所で熱射病で倒れて以来、視力が衰え、回復しきらぬことをさす。
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三月二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
三月二日
きょうは又ひどい風が立ちます。春はこれでいやね、京都はこんな吹きかたをいたしません。島田辺もそうでしょう? 風がきらいだからこう吹くといやね、外出しないですむので大仕合わせですが。
こんどは大変かりかたになってしまいました、二十一日、二十三日、そしてきのう届いた二十九日の分。
「ドン・キホーテ」のこと世田ヶ谷へきいてやってじかにそちらへ返事をたのみました。あの作品はほんとにそうでしょうね、そしてその男らしい笑いの中には、あの時代の頭をもたげた市民精神の強壮さも粗野さもあることでしょうし、罪のないひどいあけすけもあるわけです。「ドン・キホーテ」が完訳にならない部分というのはその部分なのね、昔から。大体中世から近世へかけての文学には、ボッカチオの或作品のように諷刺としてのあけすけがあり、それが後世の偽善的紳士淑女を恐れさせ、中世のドイツ詩なんか随分古語のよめない人には知られない傑作があるそうです。暗黒時代と云われ、宗教があれ丈残酷な威力をふるった半面に、そういう豪快なところがあったのは面白いと思われます。それにつけて今くやしがることがあるのよ、動坂へ家をもったときビール箱に五つも本を売ったでしょう、あのときわたしの旦那様は「惜しがる必要ないよ、いい新版がいくらだって出るんだから」と仰云いまして、愚直なる妻は二つの驢馬耳で其を承り、ああ、おしがるには及ばないのだ、と考えました。ところが、それから十三年経ちました。或る日旦那様が、「ドン・キホーテ」をほしがって、ないかないかとせめかけになりましたが、そのとき、日本には紙そのものが欠乏いたしまして、本にさえ「日本紙漉史」という本が出来、芥川賞は「和紙」という小説に与えられるという状況になりました。清少納言が「白い紙」いとめでたしとかいて、中宮から白い紙を頂くと、よろこんで、何を書こうと楽しみ眺めたことも実感で肯ける時代でありました。「ドン・キホーテ」の美しい插画入りの二巻の大部の本の姿が、驢馬耳細君の眼底に髣髴いたしました、そして思いました、今あの本さえあったらば、と。しかし、後悔先に立たずと云った古人はこの場合も正しくて、驢馬耳細君が、十三年経ってくやしがってみたところで、金文字で「ドン・キホーテ」とあった二冊の厚い本は決して決して再び現れることはありませんでした。おそらく驢馬耳の御亭主は余り慾が無さすぎたばかりに、あった方がよい本が、その中にあるかないかもしらべようとしないで売ってしまったのだと思われます。
ですからね、「ドン・キホーテ」や「プルターク」については、探すもくやしき一場の物語があるわけなのよ。「プルターク」だって全部揃ってもって居りました、カーライルの「フランス革命史」や何かと一緒に。そして、それらは震災にやけのこった本共でしたから、日本にとって決して意味ない本でもなかったのです。たしかに古い本[#「古い本」に傍点]の鬼面におびやかされすぎたのね。あわれ、その若武者も風車を怪物とや見し。
柿内さんの云っていること、全くそうね。きのう三宅正太郎さんが、「へつらい」のない世相をのぞむのが自分の悲願だ、と云う話を発表して居られ、関心を引かれました。へつらいを、すべてのひとは軽蔑し、しかも殆どすべての人々がそれに敗けます。アランが「デカルト」をかいて冒頭にこうあってよ、「それはまだ屈従というものを知らない時代だった」と。へつらいのおそろしさはへつらいの心理が根本的に非節操的なものであるから対象が変るごとに何にでもへつらうということです。へつらいの愛国心が国を破るのはこの為ばかりです。柿内さんと同じような意味で、「隠れた飢餓」ヴィタミンの欠乏状態が前大戦のドイツをどんなにひどいことにしたか書いている医者がありました。「隠れた飢餓」と云うのね専門で。ヴィタミンの欠乏を。そう云えば、メタボリンはいかがでしょうか、もうない筈と思いますが。ともかく届けておきましょうね。
二十三日のお手紙には珍しく詩話があって、大変愉しく頂きました。あの詩にはね、続篇のように、泉の歓びというのがあるのよ、あれは牧人の側からのですけれども、それはその森かげの温い泉の方からうたわれています。軟かな曲線で森にいたる丘のかげに泉はいつから湧いていたのでしょう。白いひる間の雲、色どりの美しい夏の夕方の鱗雲のかげが、泉の上に落ちました。或る大層月の美しい早春、一人の牧人がその泉に通りがかり、何ということなしそのあたりを眺めて居りましたが、渇を感じたのか、何の疑う様子もなく、その前に膝をつき、泉に口をつけました。泉は、日から夜につづいていた半ば眠たげな感覚を、その不思議に新しい触覚で目ざまされました。はじめ泉は、自分がのまれているのだとは知りませんでした。ただ、どこかから新しく自分の力をめざまさせる力の来たことを素朴におどろきました。そして思わず、さざ波立ちました。泉の上にあった月影はそのとき一層燦き立ち、やがて、くずれて泉の
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