チポチつきですが、旧い文学の領内では全く背中一重なのが実際ね。大いに慎まなければならないことだ、と云われたのが、わかるようです。簡明なる美は非常な洞察、深い内省による選択、其に耐える精神の奥ゆきを求めます。官能において簡明な美が、つまりはそういう精神に立っているように。
 わたしはこの頃こんなことを屡※[#二の字点、1−2−22]感じます。少年から青年に亙る時期にいろいろの体技、スポーツを身につけるということは、大したものであると。進退についての、おのずからな自信、それによる自由さいかばかりでしょう。精神や性格に加わる一つの現実の可能です。性格とそういうスポーツは結びついたところがあると云うことも出来るけれど。運動神経の敏さと明敏とは切りはなせないものですから。
 太郎がスキーをはじめました。其には自転車をのりまわしていてスピードに恐怖しないこと、バランスの馴れ、などで上達著しい由です。瞬間の処置に動じない男らしさは、一つの美です、私などにとって大きい美しさです。太郎がどんな性格と人間的規模をもつ男になるか、そのような身についた力が、人間生活の仕合わせ、よろこびを与えるものと迄なるかどうかしらないけれど、でも条件だけは与えてやりたいと思います、わたしの気持お分りになるでしょう? 年月を経ても抜けないものね、その鍛練された線ののびやかさは。子供のときやった泳ぎ、自転車は決してぬけないそうです。
 太郎は細かく智慧の廻る、働く方よ。
 寿江子のところへお手紙ありがとう。わたしは見たいのをこらえて今この机の硯屏にたてかけてあるのよ、水曜の夜来ます、そのままわたしてやろうと。炭もなくあちらの生活大変のようです、どこも大変なのを、あのひとは五年前|熱川《あたがわ》にいたときの気分で、余り安易に考えすぎ、それで今困っているが、困ったわ。今いるところ引上げると云っても又さあとここの戸をあけてやる人はいないし、わたしひとりハラハラ。でもまあ何とかなりましょう。
 本棚の面目一新いたしました。竹早町にあった低い方の本棚はいつも座右にあり特別の棚なのですが、こんど入れかえて、これからよむものを(文学のもの)第一段、という風にして、友達のゴタゴタした本はみんな別の棚にうつしました。さっぱりしました。
 太郎が、もう暫くで(九時すぎ)二人が帰るというので落付かながって、二階へ上っていい? と何遍も声をかけます。下へ行くからとどなるの。今夜からやっと私も放免です。太郎と並んでねると、せまくるしいと思うのよ、そして其を現金と思う私の心は、まだ天国から二足ばかり出た太郎には分りません。

 一月二十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 一月二十六日
 二十二日のお手紙、昨夜頂きました。ありがとう。きょうは、何となし珍しい日ね、気温が暖いというのではないけれども、大気がゆるやかで、庭土の地肌が春めいてうるおって居ります。柿の幹が雨にぬれて黒く見えるのも気が和らぎます。寒は暦の上では二月四日にあけるのですものね。昨夜は霜がふらなかったのね、しもどけの土の、人に踏まれないところは、細かく粒々立ったようでなつかしみのある眺めです。こんなに愛嬌のない東京の冬の終りにさえ、こんな「春立つけさ」の感じがあるのですもの、永い冬ごもりの雪国で春めくうれしさはどうでしょう。そんなうれしさからでも、北のひとは人なつこくなるのね。
 こんな風に早春をうけとる自分の心も面白くかつ又いじらしく感じます、わたしの春陽はいずかたよりと思ってね。
 二十二日のお手紙、笑う口元になりました。全くね、ブランカがバルザックわきにおいて一首ひねる姿はおなぐさみです。源氏物語をよくよんでみると、式部の小説家としての人生の見かた、描写、大したものです。しっかりしている、しかし沢山の歌はこのように小説の情景を鋭くとらえる人が、とおどろくばかり。品のよいのが只とりえ、間違いのないというところを行っていて、殆ど描写も情の流露もなく、干菓子のようにつまりません。面白いでしょう? だからわたしも余りあなたを悩ませることはいたしますまい。今月はこれで終りよ、即ち

[#ここから3字下げ]
ふるさとはみぞれ降るなり弟よ南の国につつがあらすな
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 二十二日の午後隆治さんの小包こしらえていたら、音を立ててみぞれがふって来ました。二十三日の前日でわたしの心はやさしくなっていたし、ああみぞれ降るなりと思って、隆治さんの本の間に紙をはさんでかいてやりました。これだって、御元気にね、というだけよりはやはり心の波がうっているでしょう、下作にしろね。
 送って下さった本つきました。
 幻滅は、こちらよ[#「こちらよ」に傍点]。こちらよ[#「こちらよ」に傍点]、折角貰ったのだからどうぞお間違えなく。
 ユーゴーとバルザックとを並べよんで、非常に有益でした。バルザックは柱頭《キャピタル》のない大柱列のようね、しかもその柱はびっしり並んで太くて比較的柔い石の質で、彫刻の刻みめの深い彫りかたで万象の物景がうごめくように彫られています。が、ギリシャの柱列にある柱頭はなくて、従って、天はすぽぬけで青空よ。そこのところが我ながら妙な工合だと見えて、バルザックは、そこのすぽぬけのところを神秘主義でふたして居ります、人間の昇らんとする欲望、より高からんとする意欲、それはさすがにあれも男の中の男にはちがいないから、直感したのです。ユーゴーはそれを人間の社会の中にかえって来る精神において理解し得たけれども、バルザックは其はそれときりはなして精神の問題[#「精神の問題」に傍点]としたのね、だから人間喜劇の中に哲学的考察という銘をうった作があって、其は今日でみれば史的研究でありますが、バルザックはそこにつけ足して、何だか彼のリアリズムで包括出来ない現実の部分を、錬金術師の長広舌や降霊術やにたよっています。
 カトリーヌ・ド・メディシスね、あれは三部からなっていて、彼女が王権のために我子もギセイにし、ギルドのくずれかかる時代の新興市民にたよる過程など実に堂々としているくせに、最後の部ではカトリーヌの霊というのを出してロベスピエールに政論をさせています。しかもそのカトリーヌのおばけは、気の毒にも十八世紀のヨーロッパを股にかけて世情の混乱につけ入った大山師ドン・カグリオストクロの宴会で出て来るのよ(十八世紀をもって、世界的山師は終焉いたします)。
 バルザックは、自分のそういう不思議な性格的すぽぬけを、例の大上段の云いまわしで、神秘を感じずにいられない程強い精神と称しています。こじつけながら一面の真実ですね、何故なら、彼は少くともすぽぬけを直感して神秘につかまらずにはいられない高さ迄は、人間喜劇[#「人間喜劇」に傍点]の柱をのぼりつめたのですから。
 この人間喜劇[#「喜劇」に傍点]ということばも、おっしゃるとおりと思います。コメディアというものの内容の性質は、時代との関係で大したものね。シェイクスピアが悲劇をああいう形でかき、喜劇をああいう風に笑劇、ファースの要素を多くかいたということは、エリザベスの時代の鏡です。モリエールが悲劇として書かず、喜劇としてあれだけのものをかいた神経はフランスです。「悲劇」でない悲劇。
 コメディア、フィニタという文句は、パリアッチョ(道化師)という極めて近代風なオペラの終曲の主人公のアリアです。妻に裏切られた正直なパリアッチョが、劇中劇で妻を殺してしまうの、そして泣くように歌います。コメディア、エ、フィニタと。見物は本当に自分たちの見ているのはコメディーでそれが終ったと思ってきいているという趣向よ。直哉の「范の犯罪」は潜在した殺意からのことをかいていますが。このレコードが実に面白いのに古物で、ひどい音なの。細君をやる女の声は素晴らしい美しさ、人間ぽさ、動物らしさ、女らしさです。〔中略〕
 さて、ここで忽然として家事的転換をいたします。袷の件。そちらにある銘仙の羽織を前へ出しておいて頂きます。その羽織と着物とを合わせて一枚の着物をこしらえ、羽織は別のにいたします。どうぞお忘れなくね。鏡の物語というのがありますが、それは又別に。

 二月十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 二月十一日
 ひどい風が納って、やはり春の近づいた天気になりました。紀元節というと、この日の夜まだ道具の揃わない動坂の家で、あなたが七輪に火をおこして御自慢になったのを思い出します。でもあの頃はああやっても家がもてたのね。何一つなくて、でも炭だけはたっぷりで、わたしはあしたの朝、途方もなくからいおみおつけをこしらえましたね、そして、私の御料理の腕前については、久しいことあなたは断言をはばかる、とう状態でいらしたわね、又いつひど辛いみそ汁をたべさせられるかと。思い出の中にある季節の感じは、こうして、風に鳴るガラスの音をききながら感じている今の気候と、どうしても同じようではありません。あの季節感の中には、早咲きの梅か何かいい匂いの花の枝が揺れて居りますね。
[#ここから1字下げ]
(ここまで書いたら立たなくてはならないことになりました。島田から小包が届いたのよ。太郎があがって来て、「治《ジ》とかいてある上に達とあるよ、子供達の達」と報告いたしました、さあ行って見なくては)
[#ここで字下げ終わり]
 とんだいい紀元節で、大人も子供もホクホクです。送って下すったもので。メタボリンもたっぷり来ました。岩本さんが買ってくれた分の由。一ヵ月も留守をするからその前に当分間に合う丈薬や何かお送りしておきましょう。この節一ヵ月留守するというと、あとに大変気が配られます。一ヵ月というものを、只三十日と考えることが出来ないから。
 きょうは、これでなかなかいい日になったのよ。さっき裏の画伯が来て、川越の先の部屋[自注2]かしてくれるということになり、これも大安心です。島田へ行く前にそちらへ引越ししておいて、そしてゆっくり行けますから。こっちへ一応の単位を揃えておくつもりです、机その他本棚も。第一、あなたのふとん類おくところが出来て、何と気が楽でしょう。二十日すぎに見に行きます、そして、すぐ荷を運んでおいてね。わたしもここにともかく場所が出来、目黒の先の大岡山に寿江の室をこしらえ、まあどっちへ行ってもいいことになって気がのびます。大岡山の室[自注3]というのは大した眺望で、ゾラが巴里を高い郊外の住居から感じたように、何か東京というところを俯瞰する感じのところで一寸面白いところよ。富士が見えます、秩父の山々も。空気もよいの、川越の方は田圃の中に電車の駅が一つあって、そこからすぐですって。そこは農業の家で亡主人が絵をかき、そのためにマッチ箱的別棟アリ、その二階をかりるわけです。まわりには川と田だけ。未亡人は昔から家政のきりもりをずっとしてきた人で、しっかりした女のひとらしい風です。
 若い女教師(小学の)をおいているそうです。わたしは、どうしても、ここにいさせて貰わなくてはならないとは思って居りませんから、疎開につれて、主人公がどういう計画を立てるか、それについても急に途方にくれることがなくなって大安心です。
 二月五日のお手紙ありがとう。本当にこの間うちはろくでもないことでね。もうこれで終了です。むしろさっぱりいたしました。あなたにも大分ホコリ浴びせましたが、どうぞかんべん。
 体を直すことについては、全くそう考えます。考えてみれば、私は病気が癒らないうちから心労が多すぎ其でよほど神経は手間どったと思います。ここで一ヵ月ほど周囲の全くちがった、そして春の早いところで暮すのは、体のためどんなにいいかと楽しみです。それにつれ、昨夜も熟考いたしましたが、この間うちからの話ね、あれは、私が行くときはもってゆかないし、手紙でかいて頂くのもすこし後にしとうございます。五年ぶりですものね、行くのは。友ちゃんには婚礼のとき以来ですし。せめて今後は、お互に気づまりなことなしに一ヵ月のんびりしてみたいと思うこと切です。もうわた
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