日です。
九月十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
九月十三日
きょうは、もうすっかり秋らしくなりました。ブランカは繁忙をきわめて居ります、わけは、けさ八日づけのお手紙頂きました、この封緘一つから、何と音楽がきこえているでしょう、わたしのこころに絃がある限り、先ずこれはこたえて鳴らずに居られません。昨夜「風に散りぬ」の第二巻だけが、やっと来ました、わるいブランカでしょう、お先に失礼してよみたいと思っているのよ。さて、きょうは、もう一つ、先日来の日記をすっかり整理したいと思います、こういう日頃、日記がブランクになるというところに必然があり、又そうさせまいと努力するところにも必然があります。そしてこの三つのうち、いつかひとりでに、最も適切な選択が行われて、これを書き出しました。
八日づけのお手紙呉々もありがとうね。人間のこころに張られている絃の数というものは凡そどの位でしょう、考えると、おどろかれます。だって十三絃というものを考え、ピアノのあのいくつものオクターヴを考え、それでもまだ人間のこころの諧音は満たされなくて、あれだけの管と絃とのオーケストラを考えるのですものね。
自分たちのこころにいく条の絃があるか知らないけれども、それが緊張し鳴らんとするとき、高い音から低いなつかしい低音までを、すっかり、一条のこさず、ふさわしいテムポでかき鳴らされるよろこびというものは、本当に、どんなにつつましく表現しても愉悦という、むせぶようなよろこびがあります。理性のいくすじもの絃、感覚のいくすじもの糸。それは互から互へ鳴りわたって、気も遠くなるばかりです。吹く風にさえ鳴るようなときがあるのですものね。互が互にとって手ばなすことの出来ない名器だということが、仕合わせの絶頂であると思います、それは全く調和の問題であり、しかもそれが可能にされる条件の複雑さといったら。めぐり合わせとか、天の配剤とか人力以上のもののように考え、ギリシア人が分身(一つのものが二つに分れている)と思ったりしたのも、素朴な感歎の限りなさから出発して居ります。
お手紙にある「峠」のうた、それが「どこらの峠かときかれるなら」という一連の詩趣は、わたしの好きなセロの深い響をもって伝わります。くりかえしくりかえしその一連を読んで、峠をうたった古典を思い出しました。あの有名なヘッセ(?)の「山の彼方には幸住むと人のいう」というのがあるでしょう、ゲーテの「山の頂に休息《いこい》あり」というのがあるでしょう。どっちもその人たちの人生のあり場所を示して居りますが、「どこらの峠かときかれるなら」の溌溂とした動きと多彩と変転に耐える強靭な展望はありません。情感の美しい流露が、言葉のリズムを支配しているばかりでなく、これも亦文学の本質的な新種です。わたしはこういうものは、読むというよりのみこむのよ、たべてしまうのよ。たべてもたべても、そこに消えず香高くあるというすばらしい果物のようね。
こんな風の爽やかな初秋の日、こういうおくりものをもって、よしやそれののっている緑と白の縞のテーブル掛はかなりよごれているにしろ、やっぱり幸福者たることにかわりはありません。
ジクザク電光形というのが、そのままね。何と激甚な閃光でしょう、破壊と創造との何という物凄い錯綜でしょう、創世記というものを、人類は其々の民族によって、雄渾な伝承にして来ましたけれども、現世紀における畏怖すべき雷鳴と、爆発と、噴出する新元素新生命の偉観とは、予想もされていなかったと思います。そして、現世紀の民族叙事詩は、極めて高度な散文でかかれつつあります。詩と散文の過去の区分は或意味では消失していると思ったのは、もう何年か前ですが、この秋に、わたしは散文というものの実質がどのように充実し高められ、生命そのものが粉飾的でない通りに、飾りない美に充ち得るかということを身をもって知って、一層切実にそう思います。散文をかく人間に生れ合わせたうれしさを感じます。文学的ということも、進歩いたしますね。ああいう小説がかきたいことね、沁々そう思います、不言実行的小説が、ね。
さて、これから、わたしは犬の仔の話をかくのをたのしみにして居たのに、電話が鳴って、ひとが来るのですって。仔が五匹チビから生れました。ある朝おきたら、外のカマドのわきの空箱の中に、さっき生れたというようなのが五つ入っていて、チビは大亢奮で、しきりに報告にとびつきました、一つは圧死していました。そこで、早速もっとひろくてふちの低い箱を見つけ出して、ワラをしきこんで、そっちを御新居にしてやって、死んだ仔を埋めました。犬の世話をしていると、こういう事業もわたしの仕事になって、それは苦痛です、閉口なの、全く。しかしそこが又面白いもので、可愛がる世話するということの反面には、そのものの生死にかかわる一切が関係して来るということなのね。そう思って、成程とも思います。
四匹は白黒、チョンビリ茶。丈夫に育つけれども又この間、妙なことがありました。わたしがそちらへ行っていた間、茶色の野良犬が来て若い母なるチビと大噛合いをやったのですって。それは雄だったのだって。狂犬ではなかったかと心配していたら、次の朝、チビは全くソワソワして遠吠えをしては縁の下に入るのよ。丁度ふとんの用意していて、使わない綿を、奥の室のテーブルの下へ入れたら、チビはいつの間にか、その綿の奥へかがまりこんで、呼ぶと、尻尾をふる音ばかりパタリパタリしてどうしても出て来ません。わたしの家畜衛生学によると、これは狂犬のはじまりの動作なのよ。不安になる、遠吠えをする、暗いところに入って出て来ない。さてさて困ったよ、とチビに向って申しました。到頭はじまったかい。仕方がないから、まだ、わたしの声が分って尾をふるうちに、ともかくつないでしまおうと、首わをつかまえて綿のうしろからひっぱり出して(腰を、おとしてズルズル出て来るのですもの、誰か来て! と呼びたくなったわ)北側の光線のしずかな側の柱につなぎました。仔入りの箱もそっちへ、えっちらおっちらもって行ったの。そうしたら、段々鳴かなくなって、やがて眠りました、夜になってからは大分普通になって、もう今は無事です。人間の脳膜炎と同じと思って光線の少い側にやって、大成功でした。お産して間もないのに大活躍して、逆上してしまったのでしょうね。神経がおそろしく亢奮して、光線もよその犬も人間の子供も、すべて癪にさわったのね、綿のうしろの暗闇で、チビの眼は、豹《ヒョー》のように炯々たる緑色に燃えて見えました、こわくて同時に素晴らしい見ものでした。ただの雌犬とは迚も思えない燃え立ちかたでした。わたしの眼もソンナニ光ッタラ面白イケレド。燐光のようよ。
わたしの悲しみは、育ちつつある四匹の仔犬の将来です。犬を飼うということは、それ丈人間が食べかたをへらしていなければならない、ということなのですから、困って居ります。
おひるを食べないうちに、きっとお客が来てしまうのでしょう、歓迎でもないわ、率直に。「お話中」なのに、ね。ああでもいいことがある、その女の人に、きいて見ましょう、あなたのところで仔犬ほしくないかしら、と。郊外住居だからもしかしたらいいかもしれません。寿が一つつれてゆくそうですが。では一寸御免なさい。玉ネギをジリジリとやっておひるにします。
大した長ひるで、ここの間に一日半経ちました。仔犬は一匹貰ってくれるそうです、昨夜はおつかれでしたろう。どうもいろいろありがとう。(つまりもうけさは十五日なのよ)詳細な準備でおつかれになったことと思います。又すぐ書きますから、この前便[#「前便」に傍点]はここまででおしまいね、お疲れをお大切に。ニンニクをよく召上れ、食事の間にのみこむと楽ですが、どうかしら。ニンニクは本当によいから。
九月二十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
九月十八日(月)
おひるを、いつかお話したパフパフ(覚えていらっしゃる?)ですまして、『風に散りぬ』第二巻をよんで居りました。二時までそうしていて、あと二階で荷物ごしらえに働くプランで。ところが一寸かきたくなりました。
けさ運送やが来て、成城への荷物出しました。こんどのには、竹早町のおばあさん[自注12]のくれた机、白木の座右においていた書類入箱、低い茶色の折りたためる本棚、字引台、チャブ台、等。これでもう三回目なの。はじめリヤカー一台、二度目三台、今回、きょうあす。明日は、タンス(引出しの一つこわれたの)をやります。それと台所用品と。このきょう明日の荷物は、前には考えていなかった分ですが、こんどはともかくここからどけておいて見る気になったものたちです。長火鉢はやめます。ごく実用的でもないし。今は成城まで四十円平均よ、リヤカー一台が。
東京周辺の街道をゆく荷物車はどの位夥しいでしょう、都電の停留場に待っている間だけでも、三四台荷物をつんだ車を見ます。わたしの一見貧弱な何の奇もない荷物もその埃っぽい列の一つに加って、カタカタと行くのですが、その荷物たちは、自分に負わされている不思議に建設的な光りを知っているでしょうか、荷物が繩でくくられゆられてゆくとき其々の荷主のこころをつたえて鳴るものとしたら、今の東京のぐるりの街道ばたの人々はああして暮していられないでしょうね、そして、わたしの荷物はどんなに鳴るだろうと考えると、笑えて来ます。アンポン、ブランカ[自注13] ブランカ アンポン。ウレシイアンポン と鳴ることよ きっと。
きょう、これから二階で、二通りのこまごました荷のよりわけをするわけです、自分と一緒に田舎へゆく分、のこって役に立つ分。働く手が折々止ります、荷をつくるこころもちに我から打たれて。
ところでね、一つこころからのお願いがあります。
それは、ブランカのアンポンが余り早めにはじまるとわたしは、途方にくれてしまうから、当分、余りきれいな星空のことや月明りのことや花の蕊のいい匂いのことやは想わないで、おかなければいけないということです。
空想というものは、どんなに其が光彩陸離としていようとも、それは在りはしない[#「在りはしない」に傍点]こと、本当に知ってはいないこと、そういうことの蜃気楼です、薄弱なものです。しかし在ること、まざまざと在ること、そして知っていること、今すぐにでもくりかえし其のリフレインをききたいこと、そういうことの心の上での再現は、愉しさの限度に止らず、病気のようにさせる位つよい作用をもって居ります。
しかも、そういう自然の開花と、今との間には、まだ一つの生涯と呼ぶにふさわしい丈緊張と努力の予想される時間が横わって居ります。ユリが不束ながらもっているはっきりした眼、実際性を、極度に必要とするときが。季節より早く咲いてしまう花は、風にもろうございます。だから、わたしは一生懸命、意志をつよくして、必要にこたえる準備に力を注ごうと思います。時間を忘れて木の葉の音をきいていないで、少くとも十時には眠る、という風にしててね。
これは、むずかしいようです、お願いというのは、わたしが又候ぽーとしたら、軽く背中をたたいて正気づかせて頂きたいということです。どうぞ、ね。
このごろは何だか、こわい、と思うことが減って、殆どないようになってしまったわ、新聞でフィリッピン中部に云々とよんでも。これは大変結構なことですが(こわくなくなったのは)それだからと云ってリアリズムを失ってはならないでしょう。〔中略〕
創造という丈の文学でないものは、或る特定の文化層の分解過程の醗酵物なのね。器用に其が飾られ組立てられ心にふれ[#「心にふれ」に傍点]られるが、それは要するに創作ではないのだわ。再現物なのね。文学に創作と、再現物とあり、作家と再現工人とがあるわけです。再現工人そのものに対して何と申しましょうねえ。読者がふさわしい時期に、それが醗酵物であるにすぎないことを知ることが出来ればいいのだし、そのためには、読者に文化的に親切であればいいのです。文芸批評の新しい根本の任
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