閉口して居ります、帰ると小包作りだわ。ハア何年ぶりだっぺなア、うちの嫁っ子がまだ来《キ》ねえうちだったない、というようなわけなの。
飛行練習にお盆休みのあるということはうれしゅうございます。きょうはこの眩ゆい空に浮ぶのは夏の白雲ばかりよ。遑しい世紀の羽音はしずまって、村人はお花をもって墓詣りをします。盆踊りも三日間はするそうです。ここの村では太鼓をのせる櫓がこわれたから駄目なんだそうです。きのうの夕方、何里か先の村の太鼓の音が、ちょっときこえました。じいさんの市郎という爺の代から三代目のつき合をしている正一という鉱夫出の農夫が、いかにも都市周辺の現代農民の諸性格をそなえていて、特徴的です。日露戦争のとき捕虜になったことのある別の爺さんも、わたしを夕立のときおぶってかけて帰ったというような縁で、この男と女房と養子との守勢的打算生活の態度も特徴的です。時代に揉まれる農家の人々が、そこを棹さしてゆく、おどろくべき頭の働かせかた、二十年昔の開墾村は、今日全く抜目ない市外農村です。配給野菜で都市生活のものが、どういうものを食わされるかということが沁々とわかりました。リンゴ一貫目十二円五十銭の公定だそうです。三四十粒かかるのだそうです。しかし食べられるものにするためには、三度消毒して、十八円かかるそうです、消毒剤の払底がひどい由。白菜を蒔きまき市次郎曰ク「ハア薬がなくて心配なこった」、わたしは、こっちの生垣の中から立ってそれを見ているのよ。そして、こんな話をするの「こっちじゃ立鍬を使わないんだね。それじゃいかにもハア腰が痛そうだ。」臥鍬の、ずっと柄のひくいので、二重《フタエ》になってやるのよ。「この辺の地質じゃ立鍬は、ハア駄目だね。みんなこれだね。立鍬なんか使ってると、のんきだって云われやす」
けれども、来るとき感じたのは、東北の文化的向上とでもいうか、昔は宇都宮からは、乗客の空気も言葉も服装も全く違って一段と暗くなりました。こんど来てみると、全くそのちがいは消えていて、女の子の服装だって髪だって東京とちがいありません。ちがいは健康そうだ、という丈よ。駅の女の子にしろ同じ制服で。違うといえばアクセントぐらいのものよ。宇都宮から隣りにのった女の子はタイピスト学校に行っているのですって。宇都宮に二つあるのですって。うしろの座席には、芝浦の工場に徴用に行っている福島からの人が何人かいて、盛に配給食の比較をやっていました。こうして、人々の動きは大きくなって、攪拌されているのだと痛感しました。熟練工らしい人々は、学徒勤労を批評的に見ますね。学生は労作も能率も浮かす分を念頭に入れず、純奉仕的だからうるさいのよ、きっと。
こうして坐っているところへ風が吹きわたると、松の匂いがします。一帯の平地だのに、ここは本当に高燥で、この空気といったら。暑くて、軽くて、松やにの芳ばしさがあって、体じゅうの皮膚がよろこびを感じます。様々の空想をいたします。わたしはこんなに思うけれども、あなたにとってはやっぱり虹ヶ浜あたりの空気の方が、体に快く吸収されるのだろうかしら、などと。こちらの地方の自然には、北方の荒いやさしさ、情熱というようなものがあって、西の方の明媚さとちがって居ります。こんなこともふと思います。ああいうなめらかさ、明媚さは、もしかしたら男らしい人の感覚を柔かく休めるものかもしれないと。こちらは、云わば炭酸水の泡のような刺戟があって、それは却って、私のような性質の女に快いのかもしれない、などと。又ちがった表現をすると、あっちの自然は、通俗的なまでに文学的完成してしまっていますが、こちらは文学以前の自然だとも思えます。精神を型にはめる安定な自然でなくて、どこかで常に破調があって、先へ先へとひかれてゆくような自然ね。
さあ、おけさ婆さんが、お墓参りの花をもって来たわ。これから一寸お盆着に着かえて(!)お墓詣りいたします、家じゅうそろって。健坊も歩いてついて来るのよ、きっと。健坊は、ワンワ、ニヤニヤ、山羊はミューと分ります。牛は何てなくの? モー。健ちゃんは何てなくの? モーオ。だって。大笑いね。
夕立がそれて大分むします。むす、といっても比較にならない程度ですが。
十八、九年ぶりで歩く草道は、どんなになっていることでしょうね。ここいらの樹間の草道には、特殊な趣があります。桔梗が野生に鮮やかに咲いて居ります。では明後日には。
八月十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書)〕
八月十四日
いま午後五時です。少くとももう東京に向ってかなり走っている筈のところ、わたしはこうやって机に向っている始末です。この頃の旅行はまるでどこかの探険旅行のようね、思いがけない支障で中途で腰ぬけになったりして。今日のさしつかえは、切符が買えないということです。けさ咲が行って買えず、午後一時の列に女中さんが行って買えず。この女中さんは目がまわるようなグリーンのブラウズを着て、おまけに桃色のハンカチーフを黒のモンペのところにひらひらさせて行ったのですが、何のききめもなく、五枚の制限切符は、とうに列の先でなくなってしまったのだそうです。
咲が自転車で或る知り合のひとにたのみに行きました。駄目という返事が今来たところです。もう一軒知り合いの手づるをたのみに行きます。もし其が駄目だったらどうしたらいいでしょう。わたしはカンシャクをやっとこらえて、折角休養したのをフイにしまいと我慢して居ります。明朝七時何分かのに乗ると上野一時十五分。それからすぐそちらへ廻るしかありません。
きのうから大丈夫か大丈夫かと云っていたのに。いつもは、何のこともなく買えていたのですって。
もしギリギリ明日の切符が買えなければ、九日から今日まで休んだことも、つまりは腹立たしいことになってしまって、全くつまらないことです。そうなればどんなにわたしはいやで、あなたもいやなお気持か、はたの想像以上ですものね。わたし達の家風は全くちがうのだから、こんな小さいことも他の家風にたよったバチでしょうか。でも、つい、何ヵ月かくらした人のいうことにたよってしまったのよ。気が気でないこと、おびただしいものです。
来るとき急にきまったので、あなたも不便そうにしていらして、いいかげんへこたれたのに、帰るに又すらりと行かなくては、もっと早くすればよかった以上ね。御免なさいね。
今夜九時から売り出すのにどうにかして買うようにし、もし駄目だったら、夜明ししてもあした七時のにのれるようにします。咲も気をもんで、あっちこっちしてくれているけれ共。
あした午後お目にかかれたら、其にはこんなゴタゴタ騒動が裏うちされているのよ。然し、大体昨今の旅行というものの工合が分っていい修業です、旅行はただの旅行でないのね、「パンの町」という小説のようなのね。そこへ目ざして一つでも多くの口、一本でも多くの手が殺到しようというわけなのですね。こちらの百姓さんが云っているわ。一人で来たものが、ハア今じゃ三人五人と来るんだからハアきけます。きけるというのは参るという意味よ。七八年昔の縁故までたどって来《く》っからない、と。本当に切符はどうかしら。こんな手紙、何年にもかいたことございませんね。
八月十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月十七日
きのうの夜、七月二十四日のお手紙到着しました。長い旅行を迷わずに来て、なかなかいじらしく思いました。安心いたしました。どんなに手間どっても来たのならよかったわ、ね。
雹のあとおかきになったのね、ガラスも面くらっただろうとあり、あれがいきなりガラスに当る音思いおこしました。全くね、あれでうちは、トマトがすっかり花をおとされて駄目となり、南瓜の葉は穴だらけ。わたしは喉風邪をひきました。犬を丁度つないでおく時季でした、キャンキャン鳴くのよ、こわいのと、雹にうたれるのとで。台所の古レインコートをかぶって、三和土《たたき》の中へ入れようとして二匹いじっている間に、すっかり雨がとおって、背中がぬれました。そのとき古田中さんがあの孝子の俤をもって来ていて、そのままお相手をしていたら、ぬれたのは乾いたけれど、夜中ドラ声になってしまいました。じき治ったけれども。白藤およみになって? まだでしょうか。
おなかの調子、ぶりかえしは閉口ですね。あなたの御努力にたよって安心しているしかないというのは、何度くりかえし考えてみても妙な工合です。馴染みにくいことです。でもおかゆになれて大分ましでしょうが、副食物がそれだとなしでしょうから、これ又困ること。どうか早く涼しくなり、おなかもましになり体重も恢復して下さるように。あなたに比べれば、わたしは相すまない位のものだと思います。自分の近年のレコードではあってもね。丁度ジャガイモ一俵分よ、わたしは。
家のことは開成山からの手紙にも申上げたとおり、成城をきめておいてようございました。学童の次には女、子供らしいから、そのときになっては、もうあすこも駄目だったかもしれません。早速一ヵ月分送っておきました。約束ちがいが生じないために。やっぱりちゃんと移動申告もしてうつります。非常配給のこともありますから。感情上も、あいまいのような印象を与えるのはよくないから。
八月に入り(七月下旬から)若い友達の良人たち殆ど次々に出征しました。奥さんは大抵一人から三人の子もちでね、大汗をかいてその仕度見送りと働くのよ。なかなかこたえる光景です、三十六七歳の良人たちです。なかには丁度企業整備にあたって失職中の人もあります。収入がないまま出てゆくのですからその気持たるや。文芸のひとね雑誌送ってくれていた、あの人もゆき、改造が閉鎖ですから(命令で)その苦しい方の組でした。細君がこれからやってゆくの。日本評論の人もゆきました。もう一年分継続するよう計らっておいたとはがきくれて、もうそのときはいなくなったのよ。戦争の後段に入って出てゆく人々の見送りは何と申しましょう。「歓呼の声に送られて」と旗を振って出た初め頃より沈痛であり、国民軍という感がひとしおです。では又、お大切に願います。
八月二十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月二十八日
夕立でも来そうな工合になって来ました、おなかの工合いかがでしょう。きょうは久しぶりの二人遊びでうれしいけれども、どことなくおとなしい遊びぶりよ、あなたのおなかが何しろそんなあんばいですし、わたしもトーモロコシで底ぬけ気味で、朝おかゆたべ、今パンたべ、砂糖なしの紅茶のんだところですから。あんまり声も大きくなく、けれども飽きることを知らないで、あれこれと話すそんな二人遊び。
さて、ここに、七月二十四日、二十七日、八月七日、十一日と四通のお手紙があります。二十四日について、この前の手紙でかいたように思いますが。二十七日の分には、『名将言行録』についてお話しがあります。この本も一―三、又なかなか手に入らないのでしょうね、あちこち訊いては居りますが。誰でもがもっているという種類でないので。岩波にすこしひっぱりのある人にたのんであります。この間一寸あの本がここにあったときよんで、如水は、やっぱりおっしゃるとおりに感じました。そして、勝ちすぎは云々というところ、文武両道について、又自分の息子は先陣に出張って戦うのに如水は背後にあってそれを止めないのを家臣が注意すると、あれの力量では先陣に出ないで勝つというところ迄は行っていないから、あれでいいのだ、と云ったあたり、なかなかの爺さんと思わせます、たしかに文章もいいわね。漢文の素養があって、どこまでも日本文の文脈で、ああいう簡潔な文章をかいた古人は賞讚に価します。徳川後代の文章は低下してしまっています。やたらと蒔絵のようでね。馬琴なんか、うざっこいわ。プルタークは昔一寸よんで敬遠してしまって。シーザーの妻の話は、そういうのだったの、ナポレオンの母という本には、はっきり出ていず、贈賂[#「賂」に「ママ」の注記]のように見えました。
「一はりの弓」の詩、お気に入って
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