れるらしいのです。それが又一風変っていて、よさそうなこと丈並べましょうか、先ずわたしの駑馬的事務能力に欠くべからざる電話があります。主人が居りません。主人は女のひとで物もちの令嬢の由、五泉《ゴセン》と申す人。大連で実父が没し、そちらへ行って三年帰らず。留守を、おうた、という女が(四十位)して居ります。おうたはそれ以前日暮里夫人のところにいてこちらをよく知って居り、いらっしゃるお客様方の中では一番好きでございますわ、という人。主人は留守番費を出していますがやり切れないので諒解の上、おうたの選択で人をおくことにしました、その話は二三ヵ月前にききましたが、わたしの気分がグラグラでしたからそのままにしていたところ、この間のお手紙やお目にかかったときのことで、やはり郊外で暮した方がよいときめ、其ならと、おうたのところきき合わせたら、マアどういたしましょう二日前に若い女の姉妹が来てしまって。よくない部屋なら、というのです。わたしは、却って二人の若い女の勤め人たちがいる方が気が楽です。おうたという人は稼ぎもので自主的に動いてはいるけれ共、さし向いでは、経済能力の関係上重荷です。他に二人いて、その人も室代を出し、そしてわたしがいて、その代りわたしは、力仕事はおうたさんにして貰うという方が、遙にようございます。大体余り高くなくいられそうですし、おうたさんの生活力が旺で、ここでクマを養うような負担は全然ないらしいから、ごく単純な書生暮しにやれそうです。成城のあたりを御存じでしょうか。駅から近くだって。学園の方の側で。あっちは、奥がひらいて居りますしいくらかましでしょう。附近に畑もあるし。
 三日に行って細部をきめて、すぐ荷をすこし送ります。室代食費おうたの礼が基本です。五六十円でこの分は納りましょう。つけ足りがこの頃はひどくてね。副食物などのね。しかし其とても合理的にやれないこともないから何とか参りましょう。そういう風に、めいめいが自分の暮しは自分でまわしてゆく人たちの中で、あっさりやって、時間が出来て、仕事して行けたらもう願うことなしの条件です。おうたさんが、主食はやってくれるのよ飯たき汁ごしらえなど。配給ものの料理は。自分は一度パンですから、そのときコトコトすればいいの。大した身分でしょう? 配給もとってくれるのよ、これこそ素晴らしいわ、今だって二頁前の真中ごろ、魚やへ行って来ました。ザル下げて月の光にてらされて、地べたに丸き影うつし。サバ二切(二人)。第二次夕飯のおかずが出来てよかったけれど。この間うち曇ってさむかったのが久しぶりで夏めいて月もいいので、白い浴衣の人かげが一杯出ていて、賑やかで、子供ははしゃいでサバとりの行進と思えない賑やかさでした。面白うございました。
 こっちのうちはどうするか分りません。けれどもわたしは行ききりにならないとしても早く動きます。そちら迄二時間かかるでしょう。新宿をどうしても通るのが、いやですが、どこからだって、何か門があるのですものね。
 あっちは紀という従弟が、いいよと云っていましたが迚もないと思っていたの、家なんか勿論ないのよ、ね。でもわたしは、あっさり食べ、勉強出来る生活ならその上のことは申しません、この時代の中で。
 経済的には忽ち大口くい込みとなりますが、そのときは又そのときのこととして、ともかく仕事出来なくてはその点も私としての本来的解決の方法が立ちません、自分として握っていてかけ合うものがなくては、ね。ですから先ず仕事をはじめる次第です。一冊ずつの計画でかいて行きます、作家論にしろ、文学史にしろ小説にしろ、ね。一冊ずつを一まとめとしてのプランで。仕事が出来ればおのずと途も拓けると信じます、出版者も近視ばかりでないでしょうし。出版不能が、個々人の事情でなくなって来ているのが、却って面白い点です。人間もおもしろい気があって、どんなに低下したって出ないとなれば、それならと反転して、視点を高めるところもあったりしてね。世田谷区成城町四二三五泉方というのよ。電話はキヌタ、四〇八。豪徳寺から三つ目ぐらい? おうたというのは大畑うたというので、何でも毛利家のどの分家かに八九年いて、老女が辛くて出た女です、縫物もしてくれるから大助り。どうして御亭主もたなかったのかしら。所謂婚期を逸したのかしら。ごく一般的な働きもので、早口のひとよ、丸めの小柄で。
 室の都合は何しろ先客が、貸す室(一番いい座敷)つかっているので、わたしはあっちこっちとなりそうですが、その方が、とじこもりでなくて楽です。昼間殆ど一人よきっと。二人は出るし、そのおうた女史が、附近の家庭の手伝に出て稼いでいるのだって。そういうの、さっぱりしていていっそいいでしょう。へんにからみつかれてさしむかいでは息をついてしまいますものね。洋風の応接間とかがあってそこにいて、眠るのは二階らしいの。食事は食堂だって、腰かけの。うちのような工合ね、同じことして居りますもの、食堂で今はこれさえ書くのだもの。やれそうでしょう? 運がよかったと思い贅沢は申しません。これで一区切りね。そして第二次夕飯よ。今夜はよく眠れそうです、月夜でしゃれているし、こうやってすこし話せたし。

 八月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 福島県郡山市開成山南町一八六中條内(封書)〕

 八月十一日
 きょうは、十七八年ぶりで、ここの家の奥の机でこれを書きはじめました。こんどは急に来て御免なさいね。二十五日に国、咲がこっちへ来て、国の帰って来たのが四日。その晩に、こんどは姉さんも是非つれて行くよ、という話で、わたしもホトホトグロッキーだったから、それは行きたいけれど留守をどうするのさ、と云ったら、それについちゃあ相談して来た、と事務所に十何年勤めている女の子とその親友の子供づれの女のひとに来てもらうようにしたのですって。何しろ九日にはどうしたって立つというのに、それ迄に果して留守の人が来るものやらどうやら何だか分らなかったので、お話しするのも火曜日になってしまったわけでした。
 火曜日の夜留守が確定して、水曜日の立つ朝その人たちが来たのよ。三十一日の寿の引越し、四日の大掃除、手伝いに来たクマさんは一日に帰ってしまったので、全くえらい疲れでした。
 途中腰かけられ、五時間ほどして黒磯辺からは空気も高燥になり汽車もすき七時五十何分かにこちらへついたときは、田野の香いが芳しい涼夜でした。
 それにしても、今の旅行は一人で出来かねることね。何しろ十六年に島田行ったきりで病気以来はじめてだから、切符買う証明、駅へ前日行って買うさわぎ、上野駅の列、座席の争い、そのためのマラソン、一人では気負けしてしまうようでした。わたし一人では温泉へもやれないと云っていたのは本当ね。制限になっていてこれですもの。特に今は学童疎開で、その制限が一層なのに。
 こちらは何と云ったらいいかしら。変ったと云えば実に変りましたが、ここの芝生の庭からの眺望は大して損われていず、広闊な耕地と、彼方の山並とが見晴らせ、人が住みついているので、却ってわたしが元来た頃よりは荒廃の美が現実生活で活気づけられて居ります。客間の、ひーやりする籐の敷物、古風なオールゴール、白いクマの皮などが一年に何度あけられるかしれない乾いた動かない空気の中で樟脳の香をたてていたのが、今はフーフーと風吹きとおしにあけはなされ、書院の「磐山書院」という額の下には、健坊の昼臥のフトンがしかれていて、おむつがちらばっているという光景です。自然的というか、本能的というか、人間のそういう生活が溢れています。書院に、小包がワンサとつんであってね、その左右に、こんな文句の聯がかかって居ります。

[#ここから3字下げ]
天君泰然百體從令
心爲形役乃獸乃禽
[#ここで字下げ終わり]

 そして、ランマにお祖父さんの明治初年の写真の引きのばしがかかって居り、空では練習機が朝六時から飛びづめです。
 健坊のパタパタいう小さい跫音は実に可愛うございます。のびのびと育っているわ。茶の間の前の敷石のところに、三匹の仔犬がいて、それは健坊の愛物です。野良犬の仔だのに大きくて、コロコロで黒い体に白タビをつけたように四つの脚の先丈白いのよ。
 こんなにここの空気がいいと感じたのは初めてです。こんなに疲れて来たようなこともこれまでの生活ではなかったのね、おそらく。最後には、外国へゆく前の夏一寸母にその報告がてら来た丈でしたから。紫外線がつよくかわいているので、顔を洗ったあと、何かつけないと皮膚がパリつきます。尤も水もわるいけれども。東京では洗ったあとから汗がわくみたいで、何もつけられませんが。
 こちらの食物も極めて単調で、トーフなんか二ヵ月もたべられず、魚もないそうです、玉子もトリも。しかし、ジャガイモは、米とさし引ながらたっぷりあって煮ころがしをたべ、消耗の少いところからガツガツが少いようよ。畑からキューリもいできて、トーモロコシ折ってきて、其だけでもちがうわね、きもちが。子供ががつがつしていないのはうれしいと思います。
 着いた九日の夜は夢中で臥てしまって(一時四十分発、七時五十分着)きのうは一日体がギシギシして茶の間にみこしを据えたまま動けず。夕方畑まわりをして健坊が、葉かげの南瓜に挨拶するのをうれしく眺めました。
 きょうは、よほど体も楽になったのよ、こうやって手紙かく位。今にアンマさんが来るかもしれません、肩をもんで貰います。体のあちこちしこりがとれかけているのに、肩だけ怒らしているみたいにつまっているから、もんだ方が早く楽になるからって。
 こうやって林町での生活を遠くから見直してみると、三月から実によくもやって来たと思いますね。全くトレンチ生活だったわ。捨てた城に一人いるようなものなのだもの。そういって笑ったのよ、わたしが今度こっちへ来たのはエポックになってしまったよ、もう林町の番をする気は沁々なくなった、と。林町へは国が一寸帰っても落付けず、ソワソワしているのも尤だと思います、こっちをみると。わたしは、当然こっちにいて国のように落付けず、たかだか休養の安らかさを感じ、こっちに落付くことには本然の抵抗があって不可能ですが、成城をきめておいて何とよかったでしょうと思います。
 月曜日にここから帰り、あれこれ用をすまして、成城へ行きます。ここへ来るのはわたしにとって、いつも何か意味のある時であるのも面白うございます。自然描写たっぷりよりも、こんな手紙になるのだから、今の時勢ね。又、来てからまだ門の外へ出ないのですもの、裏山の方やおけさ婆さんの方の景色のお話ししようもないのだけれど。
 おみやげに草履がありそうよ[#「ありそうよ」に傍点]。但、ありそう[#「ありそう」に傍点]というところに御留意を。夕方、咲が自転車で町の入口のその店まで行ってくれますって。あればうれしいことね。さし当って何よりのおみやげね、わたしの休めたことの次には。
 きょう位工合よくここの空気がきけば、明日明後日とよほど休めるでしょう。そして、その下地をなくさないうちに、成城ですこし丈夫さをためこもうと思います。かえる迄にはもう一度かくでしょう。暑いけれど、ここはカラリとして凌ぎようございます。
 どうぞお大切に。一人でこの空気を、と思うと。だからいやよ、ね。

 八月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(郡山市街全景の写真絵はがき)〕

 こういう風な街の上に、朝からブンブンです。どこへ行っても、ね。
 荷風はラジオを逃げて引越ししたそうですが、雲のみの空ぞ恋しき安積山。よ。安積山は万葉にも出て居ります、その山が、こうして書いている茶の間の北手に見えます。今はボーとしていますが。汗と埃と心労でかたまった面《メン》が一重顔からはがれて、生地が出て来たようです。

 八月十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書)〕

 八月十三日
 きょうは、こちらの盆の入りです。田舎のお盆ということをすっかり忘れて、急だったので土産ももたずに来て、ハア、百合子さん来なすったけエで、些か
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