を云い乍らいそいでそこにあったダシをついで、こげつかないところだけとって、一寸煮直して小癪だから夕飯のとき半分たべてしまいました。わたしが小走りに七輪へかけつけ、唖然として且つあわてる様子御想像下さい。鰊は北の白熊に獲られるのね、きっと。やきもちやいて、東京へ出たら逆をやれと思って、自爆して、わたしという白熊を釣って駈け出させたのは手際とや申すべき。
 もう一話があります。なかなか多事[#「多事」に傍点]だったのがお分りでしょう。「鑵今昔物語」というものです。砂糖の配給は、この頃〇・六斤が〇・五斤(一人)となって、月の中旬以後になりました。もと重治さんが「砂糖の話」という小説をかきました。さとうの話は、充満しているわけですが、うちの砂糖ののこりが、大事にカンにしまってありました。間違えてそのカンをあけたら(つまり間違える[#「間違える」に傍点]ぐらい、タマにしかあけないというわけ)これも亦どうでしょう。カンの中が蟻だらけなの。へえと思って、それをおはしでかきまわして、先ず蟻陣を混乱させ、カンだから小鉢に水を入れた真中に立てて、行くたんびに、カンカンとたたいて蟻を追い出していたつもりのところ、さっき落付いて中をよくのぞいたら変なことになって居ります、水があるのよ、わたしの入れたのはさとうなのに、うすよごれた水がカンの中にあるのよ。ちょんびり。さんざん眺めて、ああそうかと合点したって、もう手おくれです。当今の鑵を信じるうつけものと川柳にでもなりそうです。かん[#「かん」に傍点]は底のつぎ目がわるくて水を吸いこんでしまったのよ。水の中でどうして砂糖がとけずにいられましょう。とけて水となれば、砂糖包のアンペラの底からハタキ出された身の素姓をあからさまにして、うすきたならしい水になるしか仕方がなかった次第でしょう。そのうすよごれた水を、いさぎよくすてるなどとは、今日の神経のよくなす業でありませんから、わたくしは口で悪態をとなえつつ、丁寧にガラスの瓶へうつしました。
 さて、三十日のお手紙にあった、野原へお母さんがいらっしゃったりするの、本当に結構です。お母さんが暫く家にいらっしゃらなかった間、お父さんが、外道奴、外道奴とお怒りになり乍ら活躍していらした、というような笑いと涙を誘う面白い話にしろ、野原の小母さんが話してですものね。それから、お祖母さんというお方は、大層姿のよい方で、十分それを御承知でなかなかおしゃれで、びんをこう出して、帯をしゃっとしめて、「後姿は、人も出て見るような」という話や、ね。おしゃれというのに二いろあって、表現的な精神の抑揚からのおしゃれはおもしろいことね。そして、わたしは、そういうおしゃれなら人後におちたくないと思います。おばあさんの御秘蔵であった小さいあなたに、おばあさんのそういう弾みのある人柄が何と感じられていたでしょうね。そういう姿美人の子だから、お父さんはお踊りになると、案外なしお[#「しお」に傍点]があったのでしょうかしら。お母さんはお父さんの踊上手がお自慢なのよ。御存じ? お父さんのお人柄のよさがそこに出ていると思って伺いました、どうしてあの武骨そうな人が、というようだったのですってね。
 鷺の宮は空気の気もちよい、林の畑の中の小さい町です。この間、着物とりに行ったらとうもろこし、きゅうり、なす、いんげん、じゃがいも等、家のぐるり一杯大きくなっていて、わたしの畑(!)がそぞろ哀れになりました。畑一つみても、力を合わせる者のあるところと、そうでないところの違いはおどろくばかり露骨です。この頃、どの家でも畑つくりをやっていて、気風がわかるようでしょうね。わたしが一人で、畑が貧弱なのもやむを得ません。その一人がともかく畑作りを着手した丈プラスです。一人だと、こんな風に畑は不便よ。朝おき、御飯がたべられる迄に一時間はかかります。いくら丸くても、半分でカマドの世話をし、半分で畑の草とりは出来かねます。夕飯頃日がかげって丁度水をやり、手[#「手」に傍点]をこしらえてやったり、草むしりによい時刻一人は、一人で七輪の前で大汗です。鷺の宮なんかの風景は、ね、細君が台所にいるのよ。あなた、あの胡瓜一寸とって来て下さいよ、うんよし。或は、一寸旦那さん見えないナと思うと、草むしり。こうして畑は繁昌です。
 緑郎の暮しも目下は食糧が大問題でしょう。包囲の頃(普仏戦争)ゴンクールの日記に、やっぱり妙な貝を歩道で売っている、などと書いてありますが、その比でないようね。その時分は、牧場の牛や羊や畑を、空から見下してはブチこわして飛びまわる罪な化物は居りませんでしたからね。今それやっているそうです。大いに参考とすべき事実です。近郊[#「近郊」に傍点]というものの立場について、ね。袋の中のようなものになって大したことです。二人だからいいところもあり、又反対に、緑郎とすれば、いろいろの場合、妻の処置について心がなやむでしょう。
 ゴンクールの日記をよんだシチュエーションも面白うございました。わたしが風呂たきをしていたの、ひとりで。たきつけに古雑誌をすこし使います。そういう中からふと目にとまって立ちよみしたのでした、何処かの一寸した雑誌。パリの市役所に、義勇兵――国民軍募集のイルミネーションがつけられ、そこにぎっしりと男たちがつめよせて来ている情景などを、ゴンクールは鮮やかに、しかし同情なくその日記にかいて居ります。ゴーチェがこの敗戦で財産をすったとあわてて愚痴タラタラな姿もあります。政治上のこと[#「政治上のこと」に傍点]というつきはなした見かたです。
 政治家というものの職業化それに伴う腐敗のために、政治を寧ろ清純な人物の近づかないものとして見る見かたは、現代にも多くの作家を支配していますね。たまに政治的であった男は、又人物の浮薄さを、後々に到って露呈したりして、なおその経験主義の偏見をかためてしまっています。
 ここいらのこともいろいろ将来の興味ある課題ですね。「孫子の代」には、そういう偏見がためられ、常識がひろくつよく健やかになったとき、大きい変化が見られることでしょう。日本でも、あああの男は政治家だ、という場合、それは決して信頼すべき人物だ、という同義語ではないところに、いろいろのことがあるわけでしょう。人間学通暁者、歴史推進者が政治家である、という観念がゆきわたり、そういう実在が見られるには時間がかかることです。
 フランス人は政治家ずれしているところがありますね、精神史的に。又、政治くずれの面もあるようです。偉大な出来ごとの、真の偉大さを把握しないで、フランス人の皮肉・辛辣さでかたづけてしまうところもあります。フランス人のこの特色を、バルザックは立腹して居ります、立腹するバルザックを好しいと感じます。しかも彼は、その人間らしい立腹に足をとられて、自分を、折角怒ったのに、その甲斐のないようなところへもって行ってしまいましたが。
 この手紙はここで終りにいたしましょう、もう九日の午後よ。六、七、八と経ちました。たった一行の間に。今も亦一人です。アイロンがピシリピシリと微かに音をたてながら熱しています。わたしは、暑い日ざしを見ながら、あなたの血便はどうなっただろうと考えて居ります。アドソルビンという腸内の殺菌吸着剤が三共にあるかしらとも考えて居ります。こうやっていてさえも、だるいのに、と思って居ります。

 七月十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 七月十五日
 暑い日でした。きのうも、ね。おなかの工合わるく、食事がちゃんとしないときにこの暑気では、さぞさぞお疲れのことでしょうと思います。わたしなんかメタボリンの注射していて、この位だのに。やっともっているという程度ですから。ことしの夏は誰にとってもしのぎがたいでしょうが、おなかのわるいのは実にいけません。苦しさが夏向きでないのに、大体いつも夏ね、何と残念でしょう。どうか呉々お大事に。いろんなことをおまかせして[#「おまかせして」に傍点]安心していられる細君は仕合せな者と云うべきでしょうが、病気まで病気している人におまかせ[#「おまかせ」に傍点]しなければならないとなると妙な工合よ、ひどく妙な工合よ。奇妙な疲れかたをいたします。
 十二日づけのお手紙、金曜日頂きました。家のこと、一寸申しあげたように、気がねなんかする理由はありません。ただわたしとすると、いかにもそちらが御苦労さまで、はい、と自分だけ腰が上らないわけだったのです。田舎へなんかは、ね。国男さんは、東京の郊外なんか意味ない、自分は開成山へ行っちゃう、と云って居りましたから。これからの生活は大したものですから、新しくわたし一人でどこかで生活こしらえることなんか迚も無理です。疎開者向ねだんが発生するのは世界共通らしくて。食糧の問題も極めて深刻です。〔中略〕「風に散りぬ」の中の一八六三年頃、あれね。
 国も家のことについての考えは、グラグラして居ります。フランクに話さない自分の都合[#「都合」に傍点]があったり、心ひそかに描く計画があったりなのでしょうね。ですからアイマイです。わたしがいなくては、自分も困るような話してみたり、わたしはさっさと自分で疎開すべきで、僕はどうにでもやるサ、と云うことになったり。そのどうにでもやるサの内容がタンゲイすべからずでね。だからああそうかと安心しきらないのよ。〔中略〕
 きょうは十八日になりました。暑いことね、しかし風がいくらか通るのでしのげます。そちらいかがでしょうか。おなかの工合はすこしいいでしょうかしら。この間珍しくカンカンにかかって計ってみたら十七貫八百(きもの、下駄ごと)ありました。一九三二年に十九貫あったのよ。わたしとすればレコードですがそれでもやっぱり太く丸いというわけでしょう。
 きょうの新聞でみると、学童が四十万人(六都府県)から各地へ集団疎開いたします、本月中に。千駄木でも三年以上は、その級がいなくなるのですって。学校のそばの疎開も、こわしの方は完成して、すっかり建ったばかりの家々(分譲地でしたから)もこわれ、材木の山と化しました。目白も沿線はこわれて陸橋の左右、角の果物屋も交番側のマーケットもなくなりました。池袋の武蔵野デパートね、あすこもありませんし、こっちの角の森永だったかしら? 三角のところ、あすこもすっかりありません。省線にのって行くと、おどろくばかりです、沿線はこわされて。ともかく家々には生活がつまっていたのですものね。方丈記の、人と住居とまた止ることなしと云ったのは、戦国時代の京都をよく表現しているということを実感いたします。東京も表情が随分変化したものです。
 御注文の本は「消化機疾患の診断と治療」というのでしょうか、御送りしてみます、腸疾患というのはないようです。ひょいひょいと高く熱が出たりなさらないことは、あなどりがたいプラスの由。封緘一緒に送ります。
 今午後二時、九十九度です。大きい大きい埃及《エジプト》人のウチワで煽いで上げたいと思います。

 七月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 七月二十三日 日曜日
 今午後の二時すぎ。わたしは珍しくのんびりして食堂のテーブルでこれをかきはじめました。こうやって手紙かくときは、いつもガタガタ連隊は出かけて居りません。その上、きのうから手伝いが来ました。樋熊さんという名よ。どこかの樋のところに熊が出て、その樋のそばに住んでいた祖先の末ででもあるのでしょう。トーテムのような名ね。台所のあれこれのひきうけ手があると、こうもちがうかとおどろきます。わたしはもうピンチだったの。十四日以後十六七日ひどく暑うございましたろう? あれでピンチになったところへ先ず咲が来て、その人が来て、わたしは昨夜は八時すぎ、就床いたしました。そして例により十二時間眠りました。それに昨夜は涼しくて、汗かかず眠れ、きょうは大分もりかえしました。
 そちらいかがな工合でしょう、おなかの方は。暑いところ、不如意一層で御苦労さまです。うまく納った状況でつづいて居りましょうか。あっちこっちの
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