ッハッハと笑いました。こう笑うのが本ものよ。ね。
 レントゲンのこと。こわがってなんか居りません、面倒くさいのよ。しかも、いいかげんのところのレントゲンなんてろくに映りもしないで。結核予防会へ行くのですが、それが面倒なのよ、面倒というのは通用いたしますまいが。日わりはこんなよ、月曜は歯イシャ、神田の方へ野菜とりにまわり午後じゅうつぶれます。火曜はそちら。水曜は分らないが、又桜田門かもしれないわ。面倒というのが、くせものめいて居りますかしら。こんなにしつこく日程なんか並べるのもくせもの?
 疲れはそういうことからではなく、人事的紛糾の精神疲労や何かがまだぬけないところへ、生活条件が急変したからです。しかし本当に診て貰いましょう、来週桜田門がなさそうなら来週のうち、に。とにかくくりかえし御心にかけさせておくのはよくないことですもの、その方が大事だから。(恩にきせる? そうでもないのよ)
 桜はもう八重になったのね、たのんだ時は一重でしたが。久しぶりね、八重桜なんて。美事だったというのはようございました。
 わたしの畑は笑止千万よ。何しろ、朝飯前に種子を蒔くなんて例外をやったものだからその日の午後から沛然と雨になって、ずっと三日ふり、そのあともああでした。そのためにホーレン草の生えるべきところから、何だか分らないヒョロヒョロのものがすこし出ていて、最も元気なのは楓の二葉です、わきの枝からおちたのが二葉を出しているの。楓のつまみ菜ってあるでしょうか、あきれたものね。もう少し待ってみて工合によっては猛然耕し直して豌豆《えんどう》をまきます。やがて南瓜もまきますが。土と天候とは沈黙のうちに教えています、俄づくりやつけやきばは役立ちませんよ、と。心のうちにシャッポぬいで居ります。
 この頃は生活のひどさで、人間の上塗りもはげることはげること。修繕がきかないから、みんな地を出して来ています。生地のしっかりしたものにはかなわないということをどんな平凡な人も感想としていて、これも興味あることです。あら、こうしてみると、この木目は奇麗なのね、という風にありとうございますね。少くとも桜ぐらいの木目の堅さ品位、つやをもってね。ベニヤのなまくらのはり合わせがふくれてガタガタのブヨブヨというようなのは御免です。
 この間のお手紙に万葉歌人の春の湖の舟遊についてかかれて居りました。霞をわけて、一つ一つと新しい景観にふれてゆく新鮮さは、日本の春独特の美しさでしょうね。北欧には秋の霧の哀愁ある美がありますけれど。
 この間、それとは別ですが、短い詩で「丘かげの泉」というのがありました。どこか連関あるような感情の詩で、それは狩人と泉の物語りでした。狩人が、獲物を追って足早く丘をのぼって来ました。ゆるやかな丘の斜面のどこかに、小さい獣はひそんでいます、やがてカサとかコソとか葉を鳴らすでしょう、待つ間に狩人は喉の渇をいやそうと、精気美しい眼をうごかしてあたりに耳を澄せつつ湧き水のありかを求めました。どこかで淙々とした水の音がするらしいのに、目にふれるかぎりの叢に泉は見当りません、狩人は若々しい額の汗を手の甲で拭い、何となし逸《はや》っている生きもののような眼つきをします。泉は泉で、出来ることなら、自分の姿を日光にキラキラ燦めかせて虹と立ちのぼり、自分のありかをしらせたいと思います。泉は、ついそこのもう一つ小さい丘のかげの草の下にゆたかに湧きあふれ、滴をもって流れているのでした。人間の視線が、丘の折りたたまれた曲線について、折れ曲って泉を見出さないということを、泉は残念に思います、そして、もう伝説の時代が人類の生活から去っていて、泉から白衣の仙女が立ちのぼり、狩人をうっとりとその泉まで誘いよせて、その縁にひざをつかせることもなくなっているのを、葉かげの泉は歎息しました。
 一枝か二枝の八重桜の下で、この物語をどんなにお味わいになるでしょうか。讚美歌の中に、渇いた鹿が谷間に水を求める姿をうたった調子の高いのがあって、すきでした。シムボリックに求神を云っているのでしょうが、雅歌が極めて感覚に生々としているように、この歌もほんとうに生きるものが水を求める渇き求めを歌っているようでした。渇望という字は、人間の率直な表現ね。しかしそれを純粋に感覚する大人は少いし、それをまともに追う人も少いのは不思議です。そして、おどろくべきことは、気力を失った精神には渇望が決してないということ、ね。
 今何時? マア、もう七時半よ。かき出したのは六時よ。きょうは又うんとこさ早くお眠りブー子をやります、そして、あした気持よく歯イシャを辛棒し、野菜袋をブラ下げ、そして、いいこと思いつきました。あさって、もしかしたら、朝のうちに駒込病院へ行って、外科の先生に紹介してもらって、いつか多賀ちゃんが、ラジウムかけたあの物療室でレントゲンとって貰いましょう、そして午後はそちらへ行くの。そしたらいい子ですね、この決心はもうつきました、駒込病院なら、遠いとはさかさになっても云えないし、あすこにレントゲンはないとは云えないしね。そしてすましてしまうとさっぱりするわ。一人のときが、午前は泣きなのよ。うちの国先生はダラダラ出勤で、桜田門へ出かけると云ったって、やっぱり自分のテンポは同じですから。こんや九時に眠り十一時間眠りとおしたって八時よ。御飯たべてから十二時迄に三時間はあるのね、あした行けないと云えるでしょうか、でも午後のギリギリガーガー思うとへこたれだけれど。火曜日に、もう行ったのよ、と云ってみたいという子供らしいところもあります。
 この紙が十枚で二十銭よ。アテナインクは二オンスずつのはかり売りです。しみる紙に紫インクしかなかったところを思い出したりいたします。

 五月七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 五月六日
 今、夜の八時すこし過ぎたところです。いい月の夜となりました。いかにも新緑の季節の満月らしい軽やかさと清澄さで、東の風がふいているのが、それは月の光のうごきのようです。こんな時間とこんな眺めの時刻に、二人暮しがはじまったのよ、この土曜日は。例のとおり食堂の大机です。白と碧色の格子のテーブルかけや、からりと開け放された南側の石甃やそこに出してあるシャボテンの鉢のふちをきらめかして月の明るさを告げている小さい光りや。柔かく新しい葉をふく風の音は、こころもちようございます。赤いものといえば、つつじの花ばかりですが、緑、白、碧と月光との調和は絵画的です。
 甃のところに下駄が一揃出て居ります。その下駄に月の光があります。私は落付いて、のんびり、一人の夕飯をたべながら、その下駄の方をちょくちょく見ました。それは男下駄です。自分の待っている人の下駄に、こうして月がさすのであったらば、どんなでしょう。それは跫音や声や視線や、一寸したしかも特徴的な身ぶりまでをいとしく思い浮ばせる不思議な力をもっています。
 こんなに隅から隅までが静かで、しかもこころもちと五月の自然の充実が満ち満ちて感じられる夜は、何と面白いでしょうね。二人ともあまり喋る必要がないようね。あなたの二つの眼がそこに。そして、わたしの二つの眼がここに。それでいいという風ね。
 きょうは、午後三時から、私たちきりだったのですが、六時すぎまで歯医者のところで握った掌に汗をかいて来たのよ。夕方の街を歩いて、いつもの古本や見ます、歯をがりがりやった気持があまり閉口だから。きょうは、リルケの果樹園という詩集と、レンズのツアイスね、あれのガラス工業の完成に着手したルネッサンス頃の祖先の歴史をかいた小説見つけました。お金が足りなかったから、月曜日、歯医者のときとることにしました。お読みになれそうなものです。そういえば、活字のグーテンベルクの伝はまだおよみになって居りませんね、一度よんでよいものです。
 そして家へかえると、犬が躍り上って歓迎します。躍り上る犬は女の子だのにさっぱりとして快活で男の子めいていて気に入って居ります。その次の仔が出来てね、その仔ったら又真黒と真茶のコロコロの本当の犬っころです。まだ縁の下にいて、さっき北の中庭の木戸の中にいるのを呼んだら、熊がウンとかワンとかいっていそいで引こんでゆきました。その丸さったらないの、全く今時、こんな仔犬は珍しいわ。きのうだったか、さすがの主人公が小さい声して姉さん一寸、一寸と手招きするから行ったら、可愛いよって。そういう位可愛いのよ。健之助がいないからこんな仔が可愛くて。家鴨の仔を買いたいけれど、餌が大変だというから考慮中です。熊もクリ(栗)も、到って器量がわるくて、又その不器量さったらないのも大笑いです。
 わたしが、本好きであるということは、畑にとっての不幸事です。やれ、と腰かけるでしょう? わたしは絵の本を見るか、何となしものを考えているの、で、一休みしたら、小シャベルもって出かけるという風にゆきません。ですからわたしの畑は大陸的になって、日本の集約耕作とは行かないわ、ちまちまちょこちょことは行かないのよ。これは家庭園芸には欠点で、マメであるか慾ばりであるかする女がいなくては駄目そうです。天地の勢に一任していたのでは、そこがせち辛くなって来ていて、うまく行かないらしいのよ。こまりです。畑いじりつつ、ものを考えるほど畑仕事に習熟していないというのも事実ね。台所はすごいことになって、一旦その気にさえなると、御飯の仕度が出来上ったときは準備でちらかっている台所が片づいているという上達ぶりです。わたしは国男さんにきょうも申しました、「国男さんが一番得しているのよこんなにゆっくりした、仕事に追われない気分で家のことをするなんて、わたしとしたらほとんど大人になってからはじめてで、そのとき国男さんが一緒だなんて。何てにくらしいんだろ。肝心の旦那さまに、わたしは一口だって、こんな気分でたいた御飯をたべさせることがなかったのよ。畏れつつしんで、しかるべしよ」と。「だから定期進呈したじゃないの。」そうなのよ、市電が一系統十銭ずつになり、往復四十銭かかることになりました。定期だと、いくらかよいのよ、それを買ってくれたというわけ、団子坂―池袋。れっきとした勤め人ですものね、わたしだって。うちでは出勤といえばそちらと合点しているのよ。
 それから前の交番が廃止になって空屋となりました。前の通りはそのために夜不安心なところとなって、おそくなると一人で歩くとこわいわ。ちょいと横に入ったところにはバカが出たのだから。きっといまに大通りまでのしてくるでしょう。
 うちでは門をしめておくことにしました。そしたら早速となりの万年筆工場でも門をこしらえたわ。同じことを考えるのですね。うちの門は、よごれたりと云えども白い格子の低い門ですから、今はそこを透して狭いところの左右の緑やバラのアーチが見えて、この通りでは一番人間らしい感じを湛えています。しかし竹垣が大ボロで貧乏を語っては居りますが。だから目のきく泥棒なら入るまいと思って居ります。目白とちがって、ここは戸じまりよく二階の寝るところは、廊下もちゃんと鍵がかかりますから、御安心下さい。トタンの庇がベカベカ云うと、猫なりや泥棒なりやと胸をドキつかせるにも及びませんから。あの頃はこわかったことね。一足入ったら、もう顔つき合わすしかなかった狭さだったから。ここは泥さんにとっての迷路よ。大きい家というのではなく、どこに何があるのか分らないから。そうでしょう、住んでいる人間にも分らないみたいなんですもの。昔大笑いしたことがありました。入ったのよ。戸棚片はじからあけてありました。ところが、その頃母が存命で、母の作品である風呂しき包がどの戸棚にもごたつみで、その一つ一つあけてみても、えたいの分らないボロばっかり、あいそつかしたろうし、仲間の一つ話になっただろうと笑いました。今は、もっともボロとも云えないけれど。注意いたしましょう。
 犬たちは有益です。でも集金の人たち犬ぎらいね。どうして、どこでも吠えられるのだから好きになってしまわないのでしょうね、わたしは狂犬以外には
前へ 次へ
全36ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング