態に近づき、詩をつくらないで、あれこれそういう経験をしたことを面白く感じます。
あなたも同じにお感じになりやはり一種の感興をお覚えになるでしょう? 詩をかかない私の方が安心なのよ、ね。たっぷりの詩をもっていて、いわば詩の裡にあって、詩はかかないでいる、面白さ。そういう散文の中にどれだけの詩が照り栄えていることでしょう、私はそういう散文家になりたいし、其が好きです。アランは、どうかしていてね、散文のそういう高さ、精神を知らないのよ。勿体ぶって、詩は現実から立ち上って歌うが散文はその中を走り廻るにすぎないと云っています。気の毒な男! フランスの思想界がアランぐらいのひとを選手としているということについて、大いに考えさせられます。二十世紀に入ってフランスのみならず例外をのぞいた国々は、散文の精神の力を喪って、散文は神経繊維か、思索の結晶作用の過程を示すようなもの(ヴァレリーの文章)になってしまったようです。
文学が筆舌的なものと化する堕落についても新しく感じました。いつぞやのお手紙に、筆舌の徒となっては云々とあり、私はひどいなと思ったのよ。でも筆舌的なものと、文学的なものと、どっちにもポ
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