力なしで、ここに居すわりです。寿江子は来週海岸にゆきます。彼女は大変緊張して暮しているから却って私ものんびりするかもしれません、では又ね。
五月八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(西芳寺の写真絵はがき)〕
きょうは七十九度ありました。暑くて苦しいほどだから、セルが未着でおこまりでしょうと思います。何とガタガタな一日だったでしょう。咲枝が出京して午後の短い時間に思いもかけず見つかった乳母をきめたりして四時すぎ嵐のひくように太郎をつれて行きました。私は半分ボーとして机のところで息を入れているところ。この細かい字は何とかいてあるのでしょうね。
五月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(庫田※[#「綴−糸」、第4水準2−3−63]「松林」の絵はがき)〕
きょうは八十一度になりました。五月初旬にこんな暑さということがあったでしょうか。明日は月曜日で出かけるから、せめて少しは涼しくなれと思って居ります、いそぎ紺ガスリお送りします。
この松は不自然と皆が云うが、私には昔の野原の海辺へ出る手前の道が思い出されます、きっとあなたもそうでしょう? 木の枝に蛇を下げた男の子がこんな松の間の道を歩いていました。
五月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(石井柏亭筆「佐野瀑図」の絵はがき)〕
五月九日
『万葉秀歌』はもう夙《とっく》についていなければならないのに、うちにゴロゴロしていて本当に御免下さい。上巻はいいのだが下巻にしるししてしまって消してからでなくては駄目でついのびてしまいました。やっと人手がすこし出来、これからは何となし少し楽になるでしょう。この頃の生活から、私は又先頃は知らなかった修業をして面白く感じることが多くあります。働いたことのない人々の人生とは何と嵩ばっているのでしょうね。
五月十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
五月十五日
十日づけのお手紙十三日(木)頂きました。くたびれて、クタクタになってかえって来てお茶を呑もうとしてサイドボードのところを見たら、ちゃんとたてかけてありました。思わずこれはいい、これはいい、と申しました。いつもかえって来るときはペンさんの腕に半分ぶら下りよ。そしてお茶をのみパンをがつがつとたべて、二階へ上り坐布団の上に毛布をかけてゴロリとして夕飯までうとうととします。そうするとすっかり元気になります。気は楽なのにちゃんと何時間か坐って居るというだけでも、やはり疲れるのね。おっしゃるとおり自分の気持だけで区切りをつけていたってはじまらないわけですから、もし七月につづけばはっきり夏休みにします、九月下旬までは。体の調子は決してわるくないと思います。それに目下は一寸人手もあり、従って寿江子のとばっちりもおさまっていて。私はこの頃バカになっている修業というものが必要で、成程と感服いたします。そんなにシブキ上げるなら放っておいて私にさせればいいのに、それは可哀想、させる人たちがひどいという公憤も加って、寿は自分でひきうけて、馴れないから大鳴動を起すのね、親切のうけかたもむずかしいものと苦笑いたしますし、妹もあの位になると、バカになっておかないといけないという時もあるものなのね、あちらは性格から云って頭が迅くまわるのを制すたちではないのだし、気づくことは万事気づいてのんびりしているというところ迄の修業の出来ていないのは当然でもあるし。ですから私の姉さん修業も相当の段階にたち到ったと申せます。きっと旦那さん修業にもいくらかこんなところがありそうに思われます。いかがなものかしら?
花屋の眺めについて御同感でしょう? それでも自然に茂っている樹は美しく、枝ぶりも好もしいし、葉も美しいし、やはりうち眺め、うち眺めして飽きることを知らない心のよろこびです。私はこうやって部屋が二階にあってしっとりとした心持で見ているのはいつもいろいろ様々の若葉を重なり合わせている木々の梢ですから、なかなか鑑賞の力はみがかれて来て居ります。泉物語の詩の話も久しいことしませんでした。自分のしんから気に入っている詩の話などというものは自分で書くしか仕様のないものね、しかも、やっぱりせめてはこの位の字もどうやらかけるようになって来なくては、ね。つい先頃までかいていたあの大きい粗末な荒い字を思い出すと、声のとぎれがちな叫びのようで大変苦しい気がします。まだまだ苦しかった(頭が)と思うの。じっと字をかいていられなかったのよ。丁寧にかいていられず、何かにせき立てられているようでした。その上今思うと、体じゅうの筋肉が変だったのね。全くギクシャクしていたのだわ。ですから大事に大事にすっかり癒らなければなりません。瑞々しく柔軟に丸く心も体も恢復しなくてはなりません。この頃は、字にしろ落付いてこまかくか
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