うせず、しかもこの位の字は相当の事業故、板ばさみで些か閉口です。本当に眼も永いことね、こんな字にしろ半分はカンで、長年の馴れでかくようなもので白い紙にゴミが散らばったような感じね。
 すっかり初夏となりました。夜のかけものがいつの間にかあつすぎて、すこし汗ばむような工合になるのも五月という気候の風情です。段々病気もゆるやかになって体のまるみもついて来て、自分で新しくそれを感覚するようなときの初夏には、云うに云えない若やかなものがあって面白い感情です。自然のうつりかわりが実に生々と新鮮によろこばしく映って。
 でも、二三度外へ出てみると、このあしかけ二年ほどの間にいろいろ世の中の様子が変化したのを感じます。それも沁々と感じます。日本の人は万事にゆきとどくという美点をもっているのでしょうね、しかし大まかさにも自然のゆとりがあって人間らしいふくらみがある筈です。ゆき届きすぎて非人間めくのは、利口馬鹿のやりてな女ばかりでもない様子です。
 こないだうち珍しいから目をみはって歩いたけれど、もとのように思い設けぬ飾窓に、びっくりするほど美事な蘭の蕾の飾られてあるのや、それが珠のように輝いたりする眺めは見当りませんでした。そちらへ差入れの花も払底な時だから、きっとそういうどちらかと云うと贅沢な美観は街からもかくれているのでしょう。
 でも、どこかでそれはやはり美しく立派で、蕾から花と開き又新らしく萌えたつ豊かな循環を営んでいるにちがいありません。私は全く花や木がすきよ。本当にすきよ。瀟洒《しょうしゃ》としてしかもつきぬしおり[#「しおり」に傍点]のある若木の姿など、新緑など、その茂みの中に顔を埋めたいと思います。今うちの門から玄関にゆく間のあの細い道は溢れる緑と白い花です。どうだん[#「どうだん」に傍点]という木は今頃若葉と白い鈴のような花をいっぱいにつけます。樹の美しさを話すのも久しぶりのように思われます。
 本と足袋明日お送りします。
 昨夜ふと気になったらえらく心配になりましたが、あなたの冬羽織、下着、どてら、毛のジャケツ一組等はどこにあるでしょう。まだお下げにならなかったの? この間はボーとしていて冬の着物一つもらってかえったけれども、考えてみると羽織その他大事なものどもは、どうなっているかと、女房らしく気が揉めはじめました。どうぞ御返事下さい。『廿日鼠』は私も面白いと思いました。あの小さい方の男が、気やすめとはっきり知って気休めを云っているところ、しかし大男や黒坊や掃除夫は、シニカルな気持の半面で真実それにひかれているところなど、ヒューメンな味が感傷でなく在って、あの一束の人たちの作品の特質は主としてそのところに在ると思われます。彼は物理と生物学の勉強をしているそうです。文学からそちらにゆくのは、そちらから文学に来るのと全然違うというのは本当で面白いことです。科学と法則を、彼のような作家が学びたいと感じるのも分るし、『廿日鼠』の大男のような自然力を感じる作者が生物学というところに立ちよるのも判ります。それが過程になるか終点になるかということで、彼の文学の可能も亦かわって来るわけでしょう。
 オニールのようにあっちにはああいう自然力を人間の運命のうちにつよく感じる作家が出るのね。ロンドンやホイットマンもそうですし。新しい生活力が、或ときは悲劇的に横溢するからでしょうか。
『文芸』は六十数頁の小冊子となりました。苦心して編輯していますが、作家は二十枚とまとまったものをのせ得ていません。多くの課題がこの一つの現象のうちに語られていて、作家がジャーナリズムの刺戟で仕事して来た習慣への痛烈な報復がひそんでいます。
 どんな人も従来の1/6ぐらいの収入でしょう。プルタークはもう忘れています。クレオパトラの引力史[#「引力史」に傍点]という表現は笑えました。ショウは利口なようで浅薄な爺さんね。クレオパトラの鼻がもうどれだけ低かったら世界史は変ったと云って、どんな猪口才にも記憶されましたが、クレオパトラがそれをきいたら、ジロリとショウに流眄をくれてニヤリとして黙っているでしょう。鼻の高さひくさぐらいクレオパトラの本体に何のかかわりがあるでしょう。彼女はおそらく女性中の女性だったのです。ナイルをみなぎらす太陽にはぐくまれ、あたためられ、そしてそれを装飾して表現する立場をもっていたのです。装飾に眩惑されるぐらい英雄たちは或面魯鈍であり、自然の魅力に抵抗しかねたほど素朴でもあったわけでしょう。それにあの連中はみんな派手ずきな連中だったからね。どんな時代にも派手好きな人間というものの共通に担うめぐり合せはあるものです、プルターク先生はそこ迄見とおしたでしょうか。随分変転を重ねて其は現われる、例えばレオン先生の晩年のなりゆきの如く。
 私は目下のところは余
前へ 次へ
全110ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング