全体は小箪笥と云った風の本です。文学談の上手なひとというのもあるものですね。そんなことも感じます、それは文学がすき[#「文学がすき」に傍点]な人です、そして、どんな生きかたをしてもその人として文学は好きであり得るという現実があります。
呉々もお大事に。
八月一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(江の島の写真絵はがき)〕
八月一日。自叙伝はなかなか興味深いものとなって来ました。且つ、たくさんのモラルをももって居り又現実の知識をも与えます。世界史が書かれる時が来たら、この自叙伝は多くの真実を呈供するでしょう。規模の大きい人間が、どういう視界をもっているかということについて、考えさせます。よく語り、しかも饒舌でない著述とはどういうものかということについても教えます。ガンジに対してにしろ、皮肉を云うより前に、先ず払うべき敬意のあることを知らせます。
八月三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(鎌倉由比ヶ浜海水浴場の写真絵はがき)〕
八月三日。『文芸』の「かささぎ」という小説、三年ぶりに初めて雑誌小説をよみました。ほんとに小さい作品だけれども作者の心の本当のところから書かれていて好意を感じました。そして、こういう人たちの書く小説が、平常の心でかかれはじめているという事実、嘗て島木健作が、緊張し青筋を立て義人ぶった日本人を小説にかいてきた時代から四年の月日は、これだけの変化を日本の人の心にもたらしているということを興味ふかく感じました。
八月三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(香港 Flower street の写真絵はがき)〕
八月三日。高見順の歴史小説というのは、目が疲れてよみませんでした。(『文芸』はうちへかして頂きましょうね)しかし、あの插画の木村荘八亜流をみて、歴史(明治初期)という空気が、ああいうアトモスフィアで好事的にランプ的に見られているのは不十分であり、それは変りにくいということを感じます。文学史にしろ、明治文学史研究家は裏糸を見ないで、表模様にだけ目をとられているとおり。カナカナがもう時々鳴くでしょう。
八月三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(江の島七里ヶ浜の写真絵はがき)〕
八月三日、今午後三時半。わたしのおきまりの午睡から起きたところです。こんな時間なのに、この机の、二階の机の上の寒暖計はきっちりと九十度です。そちらもお暑いことでしょう。でも、風が通りましょうか。あなたの昔々のテニス用シャツがこんなに便利に私の役に立つとはお思いにもなれなかったでしょうね。襟をすこし小さくして、袖を短かくして、浴衣のビロビロしたのとは比較にならず楽です。木綿の単衣が段々なくなって、結局又十年前のスカートとブラウスになりそうです、少くともうちにいるときは。お元気で。
八月四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(鎌倉建長寺の写真絵はがき)〕
八月四日
建長寺でしょう? 葛西善蔵がいたというところは。昔、鎌倉の明月谷というところに一夏いて、小説かいていたことがあります。そのとき、建長寺も見に行ったのだけれどこんなお寺ではなかったわ。きょう、冬から早春にかけてかいた詩をよんでいて、「祝ひ歌幾日をかけて」という歌をよみかえしていたら、そこに「口紅水仙」の詩のこともかかれて居りました。四季咲きの花は、夏も爽快な驟雨のもとに、水しぶきに濡れながら、花びらにおちるしずくの粒をよろこぶように揺れ咲く様子を、思いおこしました。葉がくれの一本水仙、ほのかなる香に立ちて、という風情。
八月四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(箱根宮之下の写真絵はがき)〕
体の工合はいかがでしょう。本当に大丈夫でいらっしゃるのでしょうね、この間は、大丈夫ときいて安心していたのですが段々気にかかり出しました。自叙伝は極めて真面目な深い本です。流水と共に生きている人が、初めてその河床の凹凸について語れる、そう感じる本です。この本をよみ、文学というものを考えると、全く文学は、文学趣味から解放されなければ恐るるに足りないものでしかないと思います。即ちこの本は一つの文学ですから。「誰が為に鐘は鳴る」の下巻が一箇のテキストであるように。
八月四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(レマン湖の写真絵はがき)〕
八月四日
きょうお金をお送りいたしました。湿度が高くて八十二度しかないのにさっぱりしない日です。レマン湖のエハガキも、これでは何となくがっかりね。スウィスは牛乳が世界一良質だそうです。北海道の雪印バタ工場が焼失したそうで又一層バタはなくなるでしょう。八月玉子は一ヵ月に一箇だそうです。この頃どちらを向いても茄子、茄子です。茄子の花の色は風流ですが。
八月五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より
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