気持が渦巻き流れ、私はその様々な音を聴き、未来の瀬のはっきりきき分けられない音を子供たちの泥んこの顔に感じているというわけです。
七月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(広島市庁の写真絵はがき)〕
きょうはすっかり夏になりました。こんなところ覚えていらっしゃいましょうか。いつか目白のお医者さんからかりた『時計の歴史』と『ラバジエ伝』どうなりましたろうか。よそへは行っていないでしょうと思いますが。『週刊毎日』買えず『日評』も買えず、御免下さい。病院通いで書生さん寧日なく、宅下げの夜具まだとれず夏ぶとんもおくれていて御免なさい。月曜に国かえって来ます。
七月十七日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(山の風景画の絵はがき)〕
七月十六日、本当の暑さになりました。あつい防空演習でした。今夜ゆっくり手紙をかこうと楽しみにしているところ。私の風体はね、紺のもんぺズボンにあなたのテニスシャツを着て居ります。大したものでしょう?『外交史』の下巻もうおよみになりましたろうか。アカデミーの『世界貿易論』というのを買い面白そうです。私は今ストレチーの『クイーン・ヴィクトリア』をよんで居ります。
七月十七日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(セザンヌ筆「パイプを咥えた男」の絵はがき)〕
七月十七日、この髭の垂れ工合が三十代のゴーリキイのルバシカを着た写真を思い出させます。セザンヌはいつも片方の眉をこう描くのですね、自分のも、ひとのも。これは気持よい肖像でいくらか秘蔵の心持のあるものです。私の用事は、あと四五回でまとまる由です。マアマアというところです。まる四ヵ月かかったことになります。それきりですむのならさっぱりいたします。国男は月曜に退院して来ましたがやはり営養が不足のせいかまだ床に居て本をよんで暮して居ります。
七月十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
七月十七日
こんどは珍しい御無沙汰になりました。いろいろの話がどっさりたまりました。御無沙汰のわけは、国男がかえって臥ていてゴタゴタ。暑くてへばる(二階が)お盆の買物に出たりしたことなど。
今日はすこし涼しいことね。雨が降りかかってすこし落付いていいと思ったら、やんで曇って、却ってむすかと心配です。
十日のお手紙をありがとう。『茂吉ノオト』と『人間の歴史』とはあります。これはいい本をお買いになったと私はホクホクもので大切にしまってしまったわ。かえすものでした由。あってよかったけれど、かえすのは辛いことね。ではそのようにいたします。かえすなら一度よんで、ね。
国男月曜日にかえりました。食事は大丈夫何でもいいのだけれど、やはり衰弱していると見てまだ床についたきりで、目ぺこです。大腸カタルの劇しいものだったらしいのね、赤痢ではなかったようです、家族の健康診断に市の衛生から来ませんでしたから。でも大体国はこの正月眼をわるくしてからブラブラで月に一杯出勤したことはないような風です。その点なかなか大した度胸よ。坊ちゃん度胸と人柄の度胸とダブッテいるように見えます。これで又ずっと秋まで休むのですって。そして、国府津へ行くとかアサカへ行くとか云って居ります。そのたんびに昔の軍隊のように大行李を運んで。こういう時代には落付かない心が、こんな形もとるのでしょうか。わたしは、せめて、本で専門の勉強でもする気になって、落付いてくれたらと思います。自分一人フワフワするのでなく、家族的[#「家族的」に傍点]なのはいいけれども、義務のためにいやなことも忍耐するという生活の緊った気風が家にないと、育って行くもののためにはわるいわ。いつもしたい[#「したい」に傍点]ことをだけして[#「して」に傍点]行くというのは。太郎がしたくないことをちっともしないと云って叱るが、それだけ叱ってもというところもあり。でも私はなかなかどっさりのことを学び、(生活法を)一しお自分は勤勉に躾けようと思います。こういう家族の中にいての方法ということも段々わかりました。既に河流をきめて流れて行く川について走ってその流れかたを云々したって仕方がないのですものね。批評も創造的批評でなくてはならないと沁々思います。そのためには喋っているより実行ですから。いつでも、どこでも、同じ、ね。
国男のかえる前週の金曜日に、出かけた翌日で疲れていたけれど女中さんをつれて出かけて、栗林さんへのものその他お義理の買物をして、富士見町へは 16.00 ほどの大きい、いい盆をとどけました。その時又手紙をかいて、御手数は万々承知ながらお願いしたのだと、改めて云ってやりました。私はいくらか忍耐を失っていて、契約の金全額支払ってかまわないから役にも立たないものを、と思うのよ。性急なかんしゃくめいては居り
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