れたけれど、そういう人間のケチさのために怒るというような怒りは知らないのよ。
 やや暫くしてもう夕方になり、私は何かよんでいたら、上り口でガサゴソ云うの、そこに太郎の本箱があるの。「そこにいるの誰だい?」分っていたけれど、きいてみたの。案の定、太郎なのよ「腕白小僧」と返事しました。そこの椅子に太郎にかしてやってあった掛布団が干してあった中に埋りこんで、みそ漬をしゃぶっている。「本だすの? 机が邪魔ならどけるの手伝おうか」「ううん」そしてのぞいて、こっちへ来て、私のよんでいた本について何か喋って、二人で暫く話していました。そしてやがて「もう僕行く、ね」とおりて行った。
 私は胸の中があったかあくなってね。本当にうれしいと思いました。大体太郎は二階へ来ません。ごくごくたまにお八つをねだりに来たりする位です。ああやって来たにはそれだけの気持の動機があり、私が打つほど怒った気持が、何か子供なりにのみこめたのね。そうやって怒られ、何かうなずけ、いい心持になり、詫びるというような大人の形式よりずっと人間らしい親密な頼れる思いが湧いたのね。そして二階へ来たのね。夕飯のとき、二人きりのとき私は「太郎も大きくなって段々ものがわかって来てうれしいよ」と云ったの。そしてね「人間はしっかりとたのもしい者にならなくては駄目だよ」と云ったら、「たのもしいって何」ときくの。私たち十ぐらいのとき、たのもしさを直感していなかったでしょうか。私は何となしわかっていたような気がするのだけれど。それからわかりやすく説明しました。やがて皆が揃い御飯をたべ、お湯をのむ段になって、太郎が私の茶わんとって「これで呑んでいい?」というのよ。自分のもなかったが、ここにも一種の心持があります。「いい」。そんなことで、もうケロリと忘れてしまったかもしれないが、それから太郎は何となく私に対して変ったの。一歩深く歩みよって、真直私のわきに立つ感じなのです。面白いでしょう? 私はうちの誰ともいい加減な気持で接触してはいないけれど、太郎のことはうれしいのよ。やはり子供はいいと思うの。うけとりかたが真直です。寿は、この頃何だか索漠としたところが出来て、人生がわかったような調子で、何か話しても多くの場合、あなたはあなた、というききかたをして吸収力が大変なくなり、それは私を悲しく思わせているのですが、私の心が、そうやって木の肌をすべりおちるようないやな思いをしたとき、太郎の心の柔らかな少年らしさは私に励しとなります。寿もわるくはないのに、病人の心理というものを肯定しすぎているし、そこから自分の世界を区切りつけすぎるし、そういうことを生活力の人並より大きいところでかためるからなかなかむずかしいと思います。生活的に大したお嬢さんで、それが昨今の時勢に押され万事不如意ですから、感じとりかたが大仰で、あっさりしなくて(物の無さなど)苦しいところがあります、はたも自分も。私はしんから気の毒よ。いろいろ。女として。
 感情の大きくつよい女が、愛情の目標もなく暮すのはよくないわ。寿は、ああいう押し出しで、ひよひよの男は、先ず俺の財布じゃと僻易させてしまうし、性格的に面白いと思われ、それから先になると二の足となるのよ、健康のこともあるし。寿自身臆病です。暮せるように暮して行こうというあっさりした人本位のところがなく、頭が細かすぎるのか計算が多すぎ、計算したら歩み出せる人生ではないのですしね、土台。何とかして健康とバランスとって仕事をまとめてくれるといいと思います。そうすれば、それが一定の高さとなれば又別の丘へ出て、そこでは又別の人間が生活しているでしょう。結婚生活の形態はきまったものだし、すこし別の形態にやるためには厖大な経済力がいるし、そういう人は、うちの経済力なんか問題にせず、それを突破して井上園子のように、幸福そうな不幸に陥るためには寿は花形[#「花形」に傍点]でありません。虚栄心を満足させる令夫人よりは骨がある女ですし。私は自分が女としてもっている何よりの幸福の自覚があるから、寿のいろいろの心理に却って高びしゃに出られないのよ。姉としていつも女というもっとひろく、痛切な地盤に出てしまうものだから。丈夫で、少くとも恢復する病気で、こういう結婚生活していて、それは皮肉になりようもないでしょう、という気分が顔を打って来ますから。でも、それでは寿の不幸になるのですが。今は国が病気で留守しているので、寿の気分も状況に対してすらりとしていて、皆が国府津へ行っていたときより楽です。国府津へなんか大したこともないのに大騒ぎして行ったり来たりやって、病人の自分が家の用事で疲らされるなんて、ということから全く神経質となり、えらかったけれど。病人にとって楽でない日常になって来ていることは事実です。一つの家の屋根の下に、こんな
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