風邪気で床にいるうち、岩本のおば様が孫さんをつれておいでになりました。お年よりはお思い立ちになると、待ったがないのね。もう足かけ三年お会いしないのに、七十歳で全くお元気でしゃっきりして、ちっともふけていらっしゃらないのにびっくりしました。孫さんというのは、昔小さいときオルガンをひいてあなたにほめられたという娘さんよ、十九で、去年明石という応用化学出の人(鹿島高工)と結婚し、その人が応召で十條(王子)の工廠づとめなのですって。幹部候補から少尉になっている由。おばさんも孫さんも満足して暮している様子で何よりでした。十時半頃から来られ、咲枝が国府津へ行くと大騒ぎのなかを、どうやらおひるを仕度してそれでもよくあがりました。三時すこし前おかえり。いろいろ親類の話が出てめずらしい噂伺いました。岩本さんは三田尻とどことかの間の校長になられ、一家そちらに引越したのだそうです。この間の洪水のひどかったところで、壁に三尺も跡がある由。米屋に一時間もかかるところ。しかし飛行場が出来たりして、光とおなじような場所になるのだそうです。岩本さんではあと女学校四年の娘、六年生の娘、四つの男の子という順だそうです。
 周ちゃんのところではお姉さんでしょうか岩本さんという人にお嫁入りした足のわるい方。その方夫婦がこの節は一緒らしいのよ。すすむさんというお兄さんは、徳山の井村さん(銀行の人)の親戚で只一人娘さんだけのこった家へ養子に行ったそうです。お金はあってなさそうじゃとのお話。
 周ちゃんをよぶとか云っていて、その様子ではふさわしくもないでしょうから、おばさまいらしてようございました。
 どこも御案内が出来ないが、孫さんと二人で観て下さるよう歌舞伎の一等二枚奮発して、お土産話の種にいたします。そして、七月初旬おかえりというからそれ迄に田舎へのおみやげをもって行きましょう。東京でみると、あちらの女の人たちはみんな周ちゃんに似て線が太くてかっしりね、多賀ちゃんもそうだったが、それでもほかの人たちの方が健康のせいかもっとかっしりと線太で面白く感じました。北の方の人々は地の柔かい深さを感じさせ、あちらは、石の切り出した厚みを感じさせ、そのちがいも面白く思われます。人の性格かと思ったけれどもっとひろい共通性のあるものなのね。岩本のおばさまったら、私が丁度いい位にやせたと、島田のお母さんに云っておこうとお笑いでした。でも私は、もっと円くなる予定ですし、そうでないと十分の体でないのだから、見合わせて頂きたいと笑いました。おとしよりの方は、私の円いのに心ひそかに恐縮していらっしゃるのがわかって全く可笑しい。わたしが、ハアハア笑って、一向結構という風で円くているから、苦情も仰言れなくて、何とお可哀そうなことでしょう(!)おや、雨が降り出しました。もう五時近いからおつきになったでしょう。下北沢でおりるのですって。
 珍しいお客様でお話がこまごまとしているから私は疲れました。それでもいろんな噂が珍らしくてこの手紙さしあげます。大阪の明石さんでなかったから大助りよ。まともな配給で毎日暮している人でなくては話にもなりませんからね。それでも軍人さんだから世間にないカンヅメが買えるというのでおみやげに鮭のカンヅメ頂きました。この頃一般の人はこんな大きい円切りの鮭カンなど見たこともありません。
 昨夜はヴェルハーレンのかいたルーベンスの伝記、活字が大きいので読んで面白うございました。ルーベンスの偉大さと美しさと無意味さが公平に見られていて、この詩人が一方でレンブラントを書き、優れたレンブラント伝とされているのも興味があります。ルーベンスの浅薄さとよろこびの横溢を理解してその対蹠的芸術家として真の大芸術家としてレンブラントを書いているのです。
 白樺の人たちがレンブラントを紹介し、日本ではゴッホとレンブラントは云わば文学的に崇拝されています。しかし、レンブラントにせよゴッホにせよ、そういう崇拝は、自分たちにないものへの安易な崇敬として評価されているのでしょうか。自分たちの可能の典型として愛し尊敬しているのでしょうか。私はよくこの疑問を感じます。煩悩の少い、テクニカルなことに没頭したり、フランス亜流に彷徨したりしている人々に、どうしてこういう芸術家たちが、体と心をずっぷりと人生の激浪の底につけて、そこから年々のおそるべき鍛練によって我ものとつくり上げて来た芸術の不動な真実をしんから理解出来ましょう。ベルハーレンが、レンブラントの描く人間はいつも窮極においてのっぴきならぬ情熱のどんづまりにおいて描かれている。決定的なものだが、ルーベンスなどはそういう人間のつきつめたもの、その真実、そういう永遠性はちっともないと云っているのは本当ね。ルーベンスの画集は裸体であふれていて、それを切りとったら
前へ 次へ
全110ページ中40ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング