話の種もなくなるでしょう。ウィーンのリヒテンシュタイン伯の画廊で見た毛皮外套の若い女の裸体は今も目にのこっています。ルーベンスは妻に死なれ、後若い妻を得て、それをかいたのですが、覚えていらっしゃらないかしら。本当にスルスルとそこにみんなぬいで、それ羽織って御覧と云われ、こう? という風にちょいと体にかけて、若々しいよろこびとはにかみと自分を見る人への恥しさを忘れた親しみとを丸い子供っぽいような顔に溢らした女の像。肉づき、豊満な皮膚の色と、どっしりとして実にボリュームのある大毛皮外套が黒い柔かさ動物らしさで美事な調和を示し、ルーベンスの美のよい面を示しています。この頃私は時々絵の本を見ながら私は自分の富貴人たるをよく知らなかったと思うのよ。貧しい理解の程度にしろ少くない名画をほんもので、自分の眼で見て来ているということだけでも、私はもっともっと自分の内部のゆたかさを自覚すべきだと思うの。つまりそれだけの美の印象を十分自分のこやしとするべきだと思うわけです。私は生活的で女らしくナイーヴで、生きぬけて来てしまうように恬淡なところがあって、しかしそれは芸術家としては初歩ね。ペダンティックな教養への反撥が作用してもいるのでしょうね。もうくたびれたからさよなら。
六月二十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(安芸厳島神社の写真絵はがき)〕
六月二十四日。ねまきお送りいたします。もう一枚の単衣の方はさし当り、去秋(九月中旬)お送りしてかえらず、そちらにあるメイセン絣ペナペナだけれども、今ごろジュバンの上へお着になれます、どうぞそれを着ていらして下さい。新しいのをこしらえてお送りしますから。麻のや白を着る前のは、もとから無かったのよ。一枚いい心持のがあったのを、私がいなかったとき(七年も前)消え失せてしまいました。別に手紙をゆっくりね。
六月二十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
二十五日づけのお手紙ありがとう。二十三日のも頂いて居ります。魔法ビンはよかったこと。不思議なこともあるものなのね。悪いことばかりはないというのは、このことでしょう。古い方は両全会へもって行って届けます。札をつけて。来月自分でゆくときに。
官報販売所は、例により電話で話が要領を得ませんから、往復ハガキを出しそちらへじかに返事するようとり計らいました。栗林さんは、へこたれますね。あんなに細かに手紙やっておいたのに、ペンが使いに行ったらそのときになって二階をチョイトゴソゴソやって云うには、何しろ古いものだから分りかねる、受とりを見せてくれれば見つけるが、という次第です。速達を出して、私が病気のため受取り仕舞いなくして困却して居るから万々よろしくと折入ってたのんであるのに、いいかげんによんで、面倒くさがって、それでも三百代言的ポイントをつかまえて使を追い返すなんて、ね。
やっぱり蔵の鍵が見つからないから、のくちね。しかし閉口します、そして、腹が立ち、何一つ役にたたないのにと思ってしまいます。職業上の義務として、そんなこと位わかるようにするだけの骨折りもいとうとは困ったものです。お使いに、森長さんからもお話がありましたが云々と云っていたそうです。どうしても私はあれをさがし出さなくてはならないことになりました。どうぞ暫くおまち下さい。そして、これからは謄写屋から来たらすぐお送りしてしまわなくては駄目ですね。これからは、代金支払ったら受取りをみんな森長さんのところへ届けておきましょう。そしたら、あの人は事務的だから、後から調べるとき有用につかうでしょう。こちらが病気だって留守だって、盆や暮には礼儀をつくしているのに、こんなとき不誠意だと、商売道から云ったって下の部と思うわね。あわれ、あわれ、受取書よ、どこからか出て来い。めをつぶり手をたたき、三遍まわるそのうちに、受取書よ、出て来い。(と行くと幸なのだけれど)
今頃岩本のおばさまは孫さんと並んで歌舞伎見物でしょう。暑くないから幸でした。多分水曜日ごろ、田舎へのおみやげをもって北沢へ行きます。おくさん、上の娘、下の娘、男の子、父さんだって一寸何かあればうれしいでしょう。この頃はおみやげ本当に苦心よ。女の身のまわりのものは点数ですし。下駄でもあげようと考えて居ります。男の子へはオモチャ。おばあさん御自身にだって東京みやげがほしいでしょう。何しろあのお年で、元気とは云ってももう二度三度出ていらっしゃれるかどうか分らないのですから。歌舞伎の切符はこの頃四円に四円四十銭から税がつきます、一枚九[#「九」に「ママ」の注記]円四十銭よ。大したものです。食事を一寸すると、五円が晩の定額だけれど、税で七円位にすぐなります。山崎のおじさまが御上京のときはもっとお弱りだったし暑かったし、私は林町へ引越しさわぎの
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